2020年10月18日礼拝

主を求め、主に従う道へ      ヨシュア記7章13~26節

罪の原因 ・イスラエルがアイに勝てなかったのは、聖絶せよと命じられたエリコの財宝を盗んだ人が民の中にいたからです。聖絶のものを取ったということは彼が「主の契約を破った」15)ということです。神は神の民と契約を結ばれる方です。この契約は祝福の契約です。私たちがクリスチャンになったことも罪の奴隷から、神の契約の民となったということです。主に従うなら祝福といのちが約束されています。主に従わないならその結果は死と滅びです。どちらを取るのかを神の契約の民は問われています。 ・くじによって、アカンが取り分けられます。彼は分捕り物の外套と金銀を見て「欲しくな」りました。十戒の「隣人の物を欲しがってはならない」の<欲しがる>と同じことばです。つまり、欲しがってはいけないものを欲しがる貪欲です。アカンは神に求めず、欲しがってはならないものを神ではないところに求めました。 ・神は私たちの必要をご存じです。私たちは神に求めてよいのです。私たちが本当に求める必要があるのは主ご自身です。主は私たちがもっと心から主に信頼することを求めておられます。主はよいお方、私たちによいものを備えてくださる方です。悪魔は私たちの神への信頼を失わせ、神が与えてくださる物よりももっとよいものがあると誘惑します。アカンは神を信頼せず、富やこの世の力に信頼する道を選んだ。罪の原因は神との関係にあります。

 

罪は取り除かれなければならない ・アカンの背きの罪によって、イスラエルの民全体が神から切り離され、滅びへ向かおうとしています。イスラエルの民に必要だったことは、民の中から罪を徹底して取り除くことです。アカンが隠していた外套と金銀とアカン自身、さらに住まい、家畜などの財産、家族もすべて滅ぼされることになりました(25)。罪はもし取り除かれないならば、罪はいつまでもその人の中に残り続け、自分だけではなく、神の民全体に悪い影響を与えます。神は人を各々無関係にではなく、人類として造られたからです。アダムとエバによって罪が全人類に及びました。これに対し、私たちの救いはひとりの救い主イエス・キリストによって全人類に及んだのです。(ローマ5:18)。主に立ち返り、罪を言い表すなら、イエスの十字架の恵みによって、罪は赦され、私たちは不義からきよめられます(Ⅰヨハネ1:9)。

 

 

ゆるしとあわれみ ・イスラエルの民は主に従いました。すると、「主は燃える怒りを収められた。」26)主がイスラエルの民をあわれんでくださって、もう一度イスラエルの神としてともに歩む道を選ばれたということです。これは大きな痛みをともなうことでした。主のゆるしとあわれみはイエス・キリストによって私たちに注がれています。ただ一人主に最後まで神に従われた方が、神を求めず、神に従わない私たちのために、神の怒りとさばきを受けてくださいました。主イエスが十字架で死なれたのは、私たちが滅びから救われるだけのためではありません。主はよみがえられました。聖霊を注いでくださいました。復活の主が与えてくださる聖霊の賜物によって、私たちが主を求め、主に従う人へと変えられるためです。私たち一人一人が主に従って歩むなら、それは教会全体の、さらにこの世界全体の祝福につながるのです。