2020年10月4日礼拝

さばきと救い      ヨシュア記6章22~27節

さばき ・「彼らはその町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。銀や金、および青銅や鉄の器だけは主の家の宝物倉に納めた。」24)主の不思議な力によって、エリコの町の城壁は崩れ落ち、エリコは主へのささげものとして完全に滅ぼされました。彼らが主を恐れなかったからです。エリコの王もエリコの人々も、イスラエルの民の中で主が働いておられることに気づいていました。けれども彼らは変わろうとしなかった。やがて主の力によってエリコの城壁が崩れたとき、主はついにエリコの聖絶をお命じになります。エリコに満ち満ちていた罪に対する神のさばきであり、イスラエルの民が罪と偶像礼拝に染まってしまわないためでもありました。神が愛の神であるなら、なぜさばきをなさるのか、なぜさばきによって滅びをもたらされるのか、そんな風に考えたことはあるでしょうか。キリスト教会の中にも、さばきと滅びなどない、キリストを通して最後にはすべての人が救われるとする立場もあります。けれどもそれは、聖書を通して神が語っておられることとは違います。聖書は神がさばきを行われる方であることをはっきり語っています(使徒17:31)。天にあげられたイエス・キリストがもう一度この地上に来られ、生きている人も死んだ人もすべての人をさばかれるということ。これが教会が告白する信仰です。

 

 

救い ・救いとさばきは切り離すことができません。私たちはイエス・キリストの十字架と復活によって救われました。何から救われたのか。さばきと滅びから救われたのです。それはイエスが私たちの身代わりとなってさばきを受けてくださったからです。「しかし、遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。」(25)ラハブは主が力ある方であると知っていたのです。彼女はただいのち拾いを願ったわけではありません。イスラエルの神である主を信じて生きる神の民になることを願ったということです。人間の力ではなく、聖霊がそうさせてくださったからです。 ・ラハブの救いが示すことは、滅びに向かうエリコの民が神の民になり、カナンの地の神々を拝む民が神の民となったことです。私たちが滅びから救われたのは、地獄に行かずに天国に生けるようになるためだけではなく、神の民として生きるためです。私たちも神に背を向け、神から遠く離れていましたが、聖霊によって、イエス・キリストの十字架と復活が私のためだと信じる信仰に導かれました。「ヨシュアは、そのとき誓った。『この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。』主がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。」(2627)これからもカナンの地での戦いは続きます。これからも罪への誘惑はあります。ヨシュアもイスラエルの民も、ラハブとその家族も、救われた神の民として、罪と戦い、祝福を受け継ぎます。主がともにおられるからです。私たちもイエスを通して神の子どもとされ、神の民に加えられました。私たちが神の救いを喜び、救いを伝えることによって、神の祝福が受け継がれるのです。主がともにおられるからです。