2020年11月15日礼拝

契約更新  ヨシュア記8章27~35節

礼拝によって ・イスラエルの民はアイとの二度目の戦いに勝利したのち、モーセを通して主が命じられたとおりに、契約の更新の儀式を行います申命記27章。神はアブラハムの子孫であるイスラエルを特別に選び、神の民としてくださいました。世代が変わり、場所が変わるごとに、契約は更新され、次の世代に受け継がれる必要があります。ヨシュアはエバル山で主のための石の祭壇を築き、「彼らはその上で主に全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げた。」31)旧約の礼拝の中心は家畜の犠牲のささげものです。人は神の前に罪ある存在であり、家畜の犠牲のささげものなしでは、神の前にでることができませんでした。家畜の犠牲は救い主イエス・キリストを指し示しています。一度限りの完全なささげものとしてご自身を捧げてくださったイエス・キリストを通して、私たちは今神を礼拝することができるのです。私たちの礼拝の中心はイエス・キリストです。初めの「全焼のささげ物」は主への献身をあらわし、「交わりのいけにえ」は家畜の一部分だけをささげ、残りは礼拝の民の喜びの食事として食されました。神が神の民を交わりの食事に招いてくださるのです。イエス・キリストは聖餐によって、私たちを神との交わりの食卓に招いてくださいます。 ・神の偉大さ、きよさ、恵みとあわれみを神の民は礼拝によって知ります。さらに、私たちは礼拝によって自分は誰なのかを知ります。私とは誰なのか。私は神に愛されている人、神の愛に応えて自分の人生を神にささげて生きる人です。また、私は神との交わりに生きる人です。神との関係によって自分を知るとは、古い自分の生き方に気づかされることでもあります。けれどもそこで聖霊の助けによって、神の望まれる生き方に方向を変えるなら、私たちは変わることができます。生涯かけて、感情、考え、意志、すべてがキリストに似た者へと変えられていくことができるのです。

 

語られる神 ・私たちが礼拝する神は語られる神です。ヨシュアはエバル山で律法のことばを石の上に書き写します。イスラエルの民の半分はゲリジム山、もう半分はエバル山の側に立ち、ヨシュアは山の上から大声で神のことばを朗読します。「その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。」34) 祝福/いのちは神のことばに信頼して聞き従う道、のろい/死は神に信頼することをやめ、みことばに聞き従わない道です。私たちは神からも神の民からも遠く離れていましたが、イエス・キリストと結ばれることによって、神の契約の民となりました。ヨシュアが山上からみことばを語ったように、天にあげられたキリストは天から神のことばを語られます。私たちは神に特別に愛され、守られ、生かされている神の民です。だから日々問われています。祝福の道を選ぶのか。のろいの道を選ぶのか。アブラハムがそうであり、旧約のイスラエルの民がそうであったように、私たちは祝福を受け継ぐために選ばれたのだからです。毎週の礼拝は神の民としての契約更新の時です。私たちは主の祝福を受け、礼拝から遣わされて出ていきます、日々の生活の中でいのちの道を選び取り、祝福の源となるためです。