2020年11月29日礼拝

その日、その時    マタイの福音書24章36~44節

Qアドベントとは? クリスマス準備の期間であるとともに、イエス・キリストがもう一度この地上に来てくださることを待ち望む季節です。 

 

終わりの日は必ず来る ・「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」36)終わりの日は大洪水のときのように訪れます。「洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」37-39)大洪水にすべてが飲み込まれてしまう日まで、すべてのことが、神を離れ、まるで神などいないかのように行われていました。そこに神のさばきである大洪水がきたのです。この時と同じように、今もこの世の営みも、まるで神などいないかのように、今の暮らしがいつまでも続くかのように営まれています。終わりを意識することが必要です。けれども、終わりを意識することは、それ以外の地上の営みをすべてやめてしまうことではありません。「そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。」40-41このとき問題だったのは彼らが何をしていたかではありません。問題は、彼らが神とともに歩んでいたかということです。いつの時代も、神とともに歩むことは戦いです。迫害がないように見えても、別に神など信じても信じなくても変わらないと思わせる悪の力は働いているからです。けれども終わりの日は必ず来ます。

 

 

目を覚まして ・「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」42-44主イエスは私たちが終わりの日に備えて生きることを求めておられます。けれども災害の備えのように、不安や恐れによって備えるのではありません。主が救いの歴史を完成されることへの期待と信頼をもって備えるのです。<目を覚ましている>とは、いつでも神とともに歩むことです。私たちが神に祈り、神のみことばを聞き、交わりによって励ましあうのは、いつでも神とともに歩むためです。私たちのこの地上の歩みにも、この地上そのものにも終わりがきます。けれども、聖霊の助けによって、みことばに聞き従い、いつでも神とともに歩むなら、終わりの日を恐怖や不安によってではなく、期待と希望をもって待ち望むことができます。私たちに必要なことは、希望を持って、神が与えてくださった今という時を大切に生きること、神が与えてくださった賜物を神のために精一杯用いることです。主イエスの再臨は私たちの希望です(ピリピ319-21)。主イエスがもう一度来られる「その日、その時」は、主を待ち望む神の民にとっては喜びの日、救いの完成の時だからです。