2020年3月1日礼拝

すべてのものの主に祈る 

エペソ人への手紙6章18節   

 「あらゆる願いと祈りによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」私たちの中には、祈りとはこういうものだという思いこみや枠のようなものがあります。けれども、祈りの世界は私たちが思っているよりももっと広いのです。 ・「あらゆる願いと祈りによって」 私たちは一瞬一瞬、いろんなことを思ったり考えたりしています。神は望んでおられることは、その願いを私たちが神に話すことです。神は私たちの願いに関心を持っておられるからです。願いも嘆きも、ささいに思えることでも、沈黙のうちに、声に出して、自分の言葉で、聖書の言葉で、私たちは神に話してよいのです。 ・「どんなときにも」 困難にあったとき、どうしたらいいかわからないとき、私たちは祈ります。困難を通して祈ることを学びます。けれども祈りが必要なのはそういう時だけではありません。どんなときにも祈るとは、仕事をしているとき、学校で家庭で、いつも神に心を向けることです。 ・「御霊によって」 私たちは自分の力だけでは神に心を向け続けることができません。すべての祈りと願いを神に、どんなときも祈ること。これは聖霊に助けていただかなければできないことです。必要なことは御霊の助けを求めることです。 ・「すべての聖徒のために」 もちろん、自分の教会の仲間のために祈ることは大切です。けれども、パウロの目はもっと広い世界に向けられています。教会はキリストにあって一つであり、一つにされていくものだからです。パウロ自身が、鎖につながれながらも、各地の教会のために祈る人でした。私たちも世界中のクリスチャンに直接会うことはできません。けれども、世界には私たちと同じ主を信じる神の民がたくさんいます。

 

 

・「忍耐の限りを尽くして」 祈りには忍耐が必要です。祈ったことがすぐにかなうわけではないからです。むしろそうでないことのほうが多いです。先の見えない中で祈り続けることには<すべての忍耐>が必要です。 ・「目を覚ましていて」 祈っても祈らなくても、神がいてもいなくても特に何も変わらない…悪魔はそういうこの世の流れを支配しています。いつのまにか祈らなくなっている。思い浮かぶのは、十字架にかかられる前、ゲツセマネでの主イエスと弟子たちの姿です。十字架に架かられる前の晩、主イエスは苦しみながら天の父に祈られ、弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14:41)と言われました。弟子たちはこの時、ユダヤ人指導者の目を恐れてイエスから離れてしまう大きな誘惑の中にありました。弟子たちは目を覚まして祈り続けることができませんでした。そしてみなイエスを見捨てて逃げてしまいます。けれども、主イエスは目を覚まして祈り続けてくださいました。私たちにも、悪魔の誘惑に対して目を覚まして祈り続けることができない弱さがあります。けれども、そんな私たちのために、主イエスは祈り続けていてくださいます。 すべての願いを、すべての聖徒のためにいつも祈り続けていてくださる方は主イエスです。私たちはキリストに結ばれ、御霊の助けによって、すべてのものの主である方に祈り、どんなときも神との交わりの中で歩むことができるのです。