2020年5月17日礼拝

 神がくださる安息      

ヨシュア記1章10~18節

安息は創造と救いの目的 「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたに安息を与え、この地を与えようとしておられる』と言ったことばを思い出しなさい。」(13)「安息」(13,15)は神が創造の七日目に休まれたことにはじまります(出エジ20:10-11)神が創造の七日目になさったことは、この世界を住まいとし、人や生き物とともにこの世界を喜び味わうことです。私たち人間には神とともに安らぎ、喜び楽しむ安息が必要です。安息は神の創造の目的です。けれども人間は罪によって神との安息を失いました。神は人をあわれみ、イスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から解放し、神のものとしてくださいました。神が約束してくださった地での安息に導くためです。私たちに必要な安息は神がくださる救いによる安息です。イスラエルの民は週に一度、神が命じられたように、救いを思い起こす安息の日を過ごしました。私たちも毎週の礼拝において、イエス・キリストによる罪からの解放と安息が私たちの中にあることを味わうのです。

  

安息はともに主に聞き従うところに ・ヨシュアは民に、ヨルダン川を西に渡るための指示を与えます。「ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族」(12)は家畜を養うのに適したヨルダン川東への定住をモーセに願い、受け入れられました(民数32)。けれども、彼らがもしヨルダン川を西に渡らなかったら、これから先のことは自分たちには関係ないと思い、神に従うことをやめてしまう危険があります。彼らはモーセに、みことばに従ってヨルダン川を渡り、他の部族とともに戦ったのちに自分たちの土地に住むと約束しました。ヨシュアはこの約束をもう一度彼らに思い起こさせます。「しかし、あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。」(14)聖書は神の民である教会に語られたことばです。私たちはひとりひとり聖書から神の声を聞き励ましを受けることができます。けれども、個人的に聖書を読むだけであれば、このことばは私には関係ない、私はもう天国に生けるのだからそれ以上のことは関係ないと考える危険があります。だから、神の民の交わりの中で神のことばを聞くことが必要なのです。イスラエルの民が安息の地に入るためには戦いがありました。私たちにも神にみことばに聞き従うための戦いがあります。その中で、神の民は互いに助け祈りあうことができます。安息は私たちがともに神に聞き従うところにあります。

 

 

安息は主がともにおられるところに ・彼らは、モーセに聞き従ったようにヨシュアに聞き従うと応答し、ヨシュアに、「どうかあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」(17) あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」(18)と祈り願います。リーダーのヨシュアはともにおられる主に信頼して「強く、雄々しく」従います。ひとりひとりの民もヨシュアとともに、また民とともにおられる主に信頼して、主がヨシュアを通して語られたことに従います。主はイエス・キリストにおいて私たちとともにおられます。十字架にかかりよみがえってくださった主に信頼して従っていきましょう。ここに神がくださる安息があるのです。