2020年6月14日礼拝

 人の思いを超えて       ヨシュア記2章1~11節

先立って歩まれる主 ・ヨシュアはこれから約束の地に入る民に先立って、二人の偵察をカナンの地に送ります。二人はエリ子で遊女ラハブの家に泊まりますが、その存在を知られてしまいます(1-3)。するとラハブは二人の偵察をかくまい、王の使者を追い返します(4-7)。主が先立って備えてくださったからです。主は遊女ラハブを特別に選び、二人の偵察を助けてくださいました。偵察を送り、情報を集め、作戦を考えることはヨシュアと民に必要なことでした。けれども、人は時に神抜きで、自分の計画や対策がすべてだと思ってしまいます。主は私たちに先立って歩んでおられます。主は私たちに対してご自身のご計画をもっておられるからです。私たちは先のことを考えます。それは必要なことですが、どんなときでも一番前を歩んでいるのは私たちではありません。人の思いを超えて、主は先立って歩んでおられます。私たちに必要なことは、先立って歩んでくださる主に信頼することです。

 

主のあわれみを思い起こそう ・ラハブが危険を冒してまで偵察を助けようとしたのは、主を知っていたからです。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。」9-10主がイスラエルの民になさったことは、ただ主のあわれみによることです。ラハブは主が力ある神であることを二人の偵察に語りました。二人はラハブを通して主の力とあわれみを思い起こすことができたのではないでしょうか。私たちもまた、日曜の礼拝とそれに続く一日を通して、これまで主が何をしてくださり、どんなにあわれんでくださったのかを思い起こしましょう。主のあわれみを思い起こすことによって、もう一度主に立ち返り、新たに歩み始めることができるのです。

 

 

遠くまで伸ばされる主の手 ・「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」11ラハブはカナン人ですが、カナンの神々ではなく主こそが神であると知ったのです。それはまず主がラハブを知っていてくださったからです。イスラエルの民から見ればカナン人の遊女ラハブは神の救いの枠の外にいる存在だったでしょう。けれども、主の救いの手は遠くまで伸ばされ、主がイスラエルになさった救いのわざを通して、ラハブが主を知ることができるようにしてくださいました。私たちもまた遠くまで伸ばされた主の手によって神を知りました。遠くまで伸ばされた主の手は救い主イエス・キリストです。神から遠く離れていた私を主は知っていてくださいました。そして天からの手を伸ばし、イエス・キリストの十字架と復活という救いのわざによって、私が主を知ることができるようにしてくださいました。人の思いを超えて、主のあわれみの手は今日も差し伸べられています。主のたしかな救いの手に信頼して、私たちは先立って歩まれる主に従うのです。