2020年6月21日礼拝

 主の誠意に応えて   

ヨシュア記2章12~24節

誠意を尽くされる主 ・エリコの遊女ラハブはヨシュアから遣わされた二人の偵察を助けました。これはカナン人とへブル人という壁を超えた「誠意」でした。今度はラハブが二人に助けを求めます「今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」(1213)「誠意」の元々の意味は<親切>です。義務ではないということです。「誠意」は神と私たち人間との関係では「恵み」と言い表されます。「主は怒るのに遅く、恵み豊か」(民14:18)な方です。それは義務からではなく、主の恵みとあわれみによることです。主は私たちを変わらない愛で愛してくださいます。私たちは神に対して誠実ではない罪人です。にもかかわらず、主は私たちを変わらず愛し続け、誠実を尽くしてくださいました。私たちは恵み豊かな主の誠意によって、罪の中を歩み永遠の死へ向かう生き方から救われているのです。

 

ラハブの信仰 ・二人の偵察はラハブが二人のことを誰にも告げないことを条件に、ラハブと家族を助けることを約束します。二人がラハブのために用意した救いの道は「赤いひも」でした。イスラエルの民がエリコに入る前に家族を家に集めえば、赤いひもを目印に、ラハブと彼女の家族だけが助かるのです。これはイスラエルの民がエジプト脱出の夜、戸に塗られた小羊の血によって救われたことと似ています。私たちにとっての小羊はイエス・キリストです。イエス・キリストの十字架の血によって、罪に支配され、永遠の死に向かう生き方から救われました。 ・聖書は、ラハブが二人の偵察をかくまったことに、ラハブの愛によって生きて働く信仰をみています(ヤコブ2:25)。ラハブの信仰は主の誠意への応答でした。信仰は義務でも私たちからでたことでもありません。まず主が誠意を尽くしてくださった。この主の愛に応え、主に愛されている者として私たちは愛を示すのです。

 

 

神の歴史の民になる ・二人の偵察はラハブの助けによって、そして何よりも主の守りによって、無事にヨルダン川をわたってヨシュアのもとに戻りました。「主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。」(24)彼らがヨシュアに語ったことはラハブが彼らに語ったことです。二人はラハブの信仰に主の導きを確信したのです。ラハブの家族はラハブとともにいのちを救われました。ラハブの家族も主を信じる神の民に加えられたということです(6:25)。さらに、ラハブの名前は神の歴史に刻まれました。カナン人であり、遊女であったラハブがイエス・キリストの系図に名を連ねています(マタイ1:5)。イエス・キリストはユダヤ人だけではなく世界の救い主だから。救われるとは個人的な<たましいの救い>にとどまることではありません。私たちは神から遠く離れていましたが、ラハブのように主の誠意によって、神の民に加えられるために救われたのです。私たちに与えられた新しい生き方は、主の誠意に応えて、神の歴史の民として、完成に向かって歩んでいく生き方です。