2020年6月28日礼拝

 父である神  

ガラテヤ人への手紙4章4~7節

神は私を救われた父 ・神は天地の造り主です。さらに驚くべきことは、この世界を造られた神が私を特別に選び、造ってくださったということ。神は私を特別に選び、造り、愛してくださる父です。けれども私たちの中にはそのことを喜んで信じ受け入れることができない心があります。罪によって、神から離れてしまったからです。そのときから、人は神から引き離そうとする悪魔の力、自分の欲望の力の奴隷となりました。けれども神が私たちを愛してくださる愛は変わりませんでした。神は私を救われる父だからです。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(4)神の御子イエス・キリストは罪は犯されませんでしたが、私たちと同じ人となられました。「それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」(5)「贖い出す」とは、元々は誰かが代わりにお金を払って自由にしてあげるという意味です。神から離れた私たちは自分の力では、罪の奴隷から自由になることはできず、神のことばである律法に従うこともできません。そんな私たちをイエスは自由にしてくださいました。お金を払うことによってではなく、十字架で死ぬことによってです。もしイエスが十字架に架かられなかったら、私たちは神から離れた罪の奴隷のままでした。イエスは私たちを罪の奴隷から自由にするために、私たちの身代わりに十字架で死なれました。それほどまでに父である神が私たちを愛しておられるからです。イエスが十字架にかかってまでしてくださったことは、私たちを罪の奴隷から自由にし、父である神の子どもにすることです。イエスの十字架によって救われるとは、父である神の子どもになるということです。そこに本当の自由があるのです。

 

 

神はイエスを通して私の父 ・神の子どもとなること。それは神から特別に愛され、神との親しい交わりの中で生きていくということです。「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(6)イエスは死からよみがえって天に昇り弟子たちに聖霊を注いでくださいました。聖霊はイエスを救い主として信じるなら、私たちの心にも注がれます。聖霊によって、神の子どもであることが心でわかるようになる。神の子どもとなるとは、父である神とイエスとの間にあるのと同じ親しい交わりが、父である神と私たちの間は生まれたということです。もちろん、神の子どもになれば苦しいことがなくなるわけではありません。けれどもイエスがそうであったように、苦しいときもうれしいときも、神のいのちの息である聖霊によって、私たちは父である神を呼ぶことができるのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」(7) この地上でどんな人種でも、どんな身分であったとしても、私たちはイエス・キリストを通して神の子どもです。私たちが神の子どもとされたのは、父である神の子どもとして、イエスとともに神の国を受け継ぐためです。この神の国をもう私たちは生き始めています。私たちは神のものです。これからの日々の歩みが、神の子どもとされた喜びをますます深く味わうものでありますように。