2020年7月12日礼拝

主を知るための経験       ヨシュア記3章7~17節

ともにおられる主を知る ・主はイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地カナンに入るために奇跡を行われます。「主はヨシュアに告げられた。『今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。』」() ・ヨシュアはイスラエルの民の新しいリーダーとして選ばれました。けれども、ヨシュアは最初からリーダーとして出来上がっていたではありません。モーセのように、ヨシュアも、主が「ともにいる」経験を通して、リーダーになっていったのです。ヨシュアだけではありません。イスラエルの民のひとりひとりが、主がともにおられることを経験する必要がありました。「ヨシュアはイスラエルの子らに言った。『ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。』」(9)だからこそ、イスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、ひとりひとりに役割があったのです。まずヨシュアが神のことばを語ります。祭司は神のことばに聴き従い、主の契約の箱を担いでヨルダン川に立ちます。民は神のことばに聴き従い、ヨルダン川を渡ります。中心にあるのは神のことばです。ひとりひとりが神のことばに聴き従う中で、ともにおられる主に信頼することを学ぶのです。

 

 

今生きておられる主を知る ・「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人…を必ず追い払われる」(10)主は昔の神でも頭で理解するだけの神でもなく、生きている神です。約束の地であるカナンの地には多くの民族が住み、彼ら拝む神々が祀られています。イスラエルの民がカナンの地に住むようになれば、この地の文化に染まり、この地の神々に引き寄せられていくことは目に見えていました。カナンの地の神々は、人間の願望や、得体の知れないものに対する恐れが作り上げた<生きていない>神々です。私たちを主から引き離そうと誘惑する力は今も働いています。けれども、生ける神は打ち勝たれます。生ける神は世界も自然も、すべてを支配しておられる主だからです。 ・「箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。…民はエリコに面したところを渡った。」(15-16) イスラエルの民は、ヨルダン川を渡るという大きな困難の中で、<川上から流れ下る水が立ち止ま>る主の奇跡を経験しました。そしてこのみわざを通して、ヨシュアとともに、民とともにおられる主を知り、今生きておられる主を知りました。私たちはすべての物事ができれば順調にうまくいってほしいと思います。けれどもうまくいかないときがあります。そういう中で、主が助けてくださった。力をくださった。だから乗り越えることができた。主を知るためにはそういう経験が必要です。「主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。」(17)  私たちにとって、困難の中で、しっかりと立ち続けてくださる方は、死からよみがえり、今生きておられる救い主イエス・キリストです。だから困難に出会った時でも、ともにおられる主、今生きておられる主が私たちのただ中におられることに信頼できるのです。