2020年7月5日礼拝

 聖なる主から目を離さずに    ヨシュア記3章1~6節

神のタイミングで ・神の民に先だって進まれるのは主ご自身です。「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。」(3-4)民の出発の合図は、祭司が主の契約の箱を担いでいるのを見たときです。神の民は神のタイミングで前に進みます。そのために必要なことは主から目を離さずにいること。教会にもひとりひとりにも大事な決断をするときがあります。神の民に必要なことは主から目を離さずにいること。必要なことは祈りです。大事な決断、日々の選択において、神の民は祈って決めます。主から目を離さないように祈りつつ前に進んでいくのです。

 

主は聖なる方 ・私たちに先立って進まれる主は聖なる方です。「聖」のもともとの意味は区別、分離されること。この世界と私たちには罪があり、悪があり、不完全で過ちや弱さがありますが、主は悪と罪がないきよいお方、神は完全で、栄光に満ち、正しい方です。この聖なる方が私たちを選び、交わり、いつくしみ、救ってくださる。これが神の愛です。 ・「主の契約の箱」は、イスラエルの民が主を礼拝する場所であり、主の住まいである幕屋の一番奥の至聖所に置かれました。したがって普段は誰も主の契約の箱を見ることはできませんでした。主は聖なる方だからです。幕屋と契約の箱は聖なる方が民のただ中に住んでくださるしるしでした。「ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」(4) 主は聖なる方であり、イエス・キリストを通して私たちのただ中に住んでくださる方です。イエス・キリストを通して、私たちは主への恐れと信頼をもって、大胆に主に近づくことがゆるされているのです(ヘブル4:14-16)

 

 

自らを聖別せよ ・民は聖なる主に従ってヨルダン川を渡ります。「ヨシュアは民に言った。『あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。』」(5)このときの季節は春。水がとても多い時期です。主が「不思議」を行ってくださてはじめて、彼らは約束の地に渡ることができるのです。イスラエルの民に必要なことは主に選ばれたものにふさわしく、主のみわざを体験する者として自らを聖別することです。 ・神は聖なる方ですから、神の民にも聖であることが求められます(レビ20:26)。きよさは人が生み出すものではありません。私たちの中にはきよさがありませんでした。けれども、主はイエス・キリストの十字架の血によって罪からきよめてくださり、聖霊を注いで心もからだも主の住まいとしてくださいました。私たちに与えられているのはキリストのきよさです。しかも、それは一度限りのことではありません。きよめられるとはキリストに似たものへ変えられていくということだからです。生涯かけて、私たちは神の栄光を表すことができるように変えられていくのです。聖霊の助けによって、主に従うきよさを求め続けましょう(Ⅰペテロ1:13-15)。聖なる主から目を離さずに、祈りながら進む歩みは、キリストに似た者へと変えられていく歩みなのです。