2020年8月30日礼拝

今ここで生きておられる主  ヨシュア記5章13~15節 

抜き身の剣  ・「ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。『あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。』」13)「抜き身の剣を手に持っ」た人は、旧約聖書ではほかに二カ所出てきます(民22:23,Ⅰ歴21:16)。どちらの場合も、それは主の御使いでした「彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。』」14聖書の中で天の軍勢といわれるように、主の軍は天にあります。主の軍の王は人ではなく、天と地を治めておられる主です。「ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。『わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。』」14)神が特別にご自身の栄光を表してくださるとき、聖書の中の人々は顔を地につけて主を礼拝します。今ここで生きておられる主に対する恐れと敬意を、ヨシュアは心だけでなく体全体で表現しました。ヨシュアは自分のことを「しもべ」と呼んでいます。ヨシュアにとって必要だったことは、誰がヨシュアの味方か敵かを知ることではなく、ヨシュア自身が誰に従うかでした。これからヨシュアは剣を抜いて戦うことになります。けれどもヨシュアより先に、主が剣を抜いて、先頭に立って、ともに戦ってくださるのです。だから戦うことができます。私たちにも戦いがあります。人との戦いではなく、悪魔との戦い、悪魔の誘惑をうけやすい自分自身の罪との戦いです。自分の力では戦うことができません。主が先頭に立ってくださるから戦うことができるのです。

 

履き物を脱ぐ ・「主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした。」15)この主のことばはモーセの召命の時の主のことばと重なります(出エジプト3:5)。どちらにも共通しているのは、主が語りかけてくださったのは、これから戦いが始まろうとしているときだということです。戦いを前にまず必要だったのは、主の前で履き物を脱ぐこと。ヨシュアが立っている場所が「聖なる場所」であるのは、場所の問題ではなく、そこに主が現れてくださったからです。では、私たちにとって主が現れてくださる場所とはどこでしょうか。モーセやヨシュアの時のように、私にもわかるようにはっきり現れてくださったらよいのにと思うかもしれません。私たちにとって主がもっともはっきり現れてくださった場所とは、イエス・キリストの十字架と復活です。十字架と復活の主イエスに心を向けるなら、私たちがどこにいても、そこが聖なる場所となります。私たちは困難を前にすると、何をするか、どうするかで頭と心ががいっぱいになってしまいます。けれども一番大切なことは、何をするかどうするか以前に、今自分はどこにいるかです。私たちは今どこにいるでしょうか。私たちがいるべき場所は十字架と復活の主イエスの御前です。求められているのは、そこで自分の力と権威いう「履き物を脱」ぐこと。私たちは十字架と復活のキリストの前にいるとき、どんなときでも、今ここに生きておられる主を恐れ、主を信頼するときことができるのです。