2020年8月9日礼拝

神のものとされたしるし 

ヨシュア記5章1~9節

割礼の意味 ・イスラエルの民は全員がヨルダン川をわたり終えて約束の地カナンに入りました。「そのとき、主はヨシュアに告げられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。」(2割礼は、古代の中東地域で広く行われていた風習、男性器の包皮を切り取る儀式です。イスラエルの民にとって割礼は単なる風習以上の特別な意味を持ちました。割礼はイスラエルの民が神の契約の民であることのしるしです。最初に割礼を受けたのはアブラハムです。アブラハムを神が選んで、神の民としてくださった。その契約のしるしとしてアブラハムは割礼を受けます。彼に続いて、アブラハムの子孫であるイスラエルの民の男の子は皆生まれて八日目に割礼を受けました。ところが、カナンの地に入った民は荒野で生まれた世代であり、まだ割礼を受けていませんでした。ヨルダン川を渡って約束の地に入ったこの時が、彼らが主のものとされたしるしとして割礼を受けるべき時でした。「主はヨシュアに告げられた。『今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。』それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」(9長い奴隷生活と荒野の旅の日々がついに終わるのです。彼らはもうエジプトのものではありません。主のものです。クリスチャンになるとは主のものとなることです。私たちの人生は私たち自身のものではなく、主のものです。

 

 

主の御声に聞き従うため ・「イスラエルの子らは四十年間荒野を歩き回り、その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が、死に絶えてしまったからである。彼らが主の御声に聞き従わなかったので、私たちに与えると主が彼らの父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのである。」(6彼らの前の世代はエジプトで全員割礼を受けていましたが、約束の地に入れませんでした。主の声に聞き従わなかったからです。割礼を受けた民に求められていることは、主の声に聞き従うことです。彼らは約束の地に入ることはできましたが、主の声に聞き従わないなら、約束の地から追い出され、祝福を失うことになります。神の民に求められていることはいつでも、主の御声に聞き従うことです。そこには戦いがあります。主がともに戦われる戦いです。 ・では私たちにはなぜ割礼がないのでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活のゆえです。信仰によって、十字架に架かられ、死からよみがえられたキリストとひとつにされることによって、私たちは「キリストの割礼を受けた」(コロサイ2:11)のです。イエスが弟子たちに授けるように命じられた儀式はバプテスマです。洗礼は十字架にかかり、死からよみがえられたキリストとひとつにされたことをあらわす儀式です。割礼と同じように洗礼も一度限りです。イエスの恵みによって救われるすばらしさがわかったから感謝して受けるのが洗礼です。洗礼を受けたということは、主の御声に聞き従わない歩みを抜け出して、主の御声に聞き従う歩みに入ったということです。私たちに必要なのは「心の割礼」(ローマ2:29)です。聖霊の助けによって、古い生き方を捨て、主の声に聞き従って歩んでいくこと。神のものとされたしるしはひとりひとりの心に刻まれています。私たちはその心で主の御声に聞き従うのです。