2020年9月13日礼拝

すべてのものは主のために ヨシュア記6章12~21節

聖絶 ・イスラエルの戦士と祭司と民は主から命じられた通りに一日一回エリコの町の周りを歩いて回ります。祭司は主の契約の箱を運びながら角笛を鳴らします。ついに七日目。この日は町の周りを七度回り、角笛が長く吹き鳴らされ、民がいっせいにときの声を上げます。するとエリコの城壁は主の力によって崩れ落ちました「この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ」17)。「聖絶」と訳されるヘブライ語のもともとの意味は<使用禁止>、多くの場合、神へのささげものに対して使われました。つまり主はエリコのすべてを神へのささげものとしなさいと命じられたのです。遊女ラハブの家族を除いて、エリコのすべての人を滅ぼすようにと主は命じられました。 ・現代の私たちにとって、「聖絶」は、旧約聖書の中でも大変難しい問題の一つです。神はいつくしみ深いお方、あわれみに満ちた方です。それなのになぜエリコのすべての人を滅ぼせと命じられるのでしょうか。主がエリコの聖絶を命じられたのはイスラエルの民が罪に染まって神から離れてしまうことを防ぐためでした(申命記20:16-18)。カナンの地には偶像礼拝と、それと結びついた乱れた道徳がありました。これらはイスラエルの民にとって大きな誘惑であり、関りを持てば神から離れてしまうことは目に見えていました。だから完全に滅ぼすことが命じられたのです「あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。」18主はいつくしみとあわれみに満ちておられる方です。ですからいつでも聖絶を命じられているのではありません。聖絶は、約束の地カナンに入り、イスラエルの民が罪に染まってしまわないために一定の期間だけとられたあり方です。

 

 

ご自身をささげる主 ・そうはいっても、なぜ主はエリコにここまで…という疑問は消えません。なぜほかの方法ではだめなのか。私たちの<なぜ>は主イエスの十字架へと行き着きます。なぜイエスは極悪人の処刑方法である十字架で死ななければならなかったのか。愛の神は私たちのいのちを守られる方であると信じています。忘れてはならないことは、聖書が示す<いのち>は神とともに生きることです。神から離れていたら、からだはいきていても死んでいる状態です。私たちをいのちから引き離すのは私たちの中にある罪です。「罪の報酬は死です」(ローマ6;23)。肉体の死も、神から切り離される霊的な死も罪の結果です。けれども神がなさったことは、私たちの罪の結果としての肉体の死と霊的な死をご自分で背負うことでした。 ・聖絶せよとは、すべてを主にささげよということです。私たちはすべてをささげよという主のことばをイエス・キリストを通して聞きます。それはまず主がご自身をささげてくださる方だからです。主が私たちに与えてくださったいのちは、主の死によって贖われたいのちです。私たちが地上で握りしめているものは、いつかは消え去るものです。けれども、神とともに生きるいのちは永遠です。主によって贖われたいのちを主にささげること。そこに主とともに生きる喜びがあり、主とともに生きる祝福があるのです。