2021年10月31日礼拝

キリストの弟子として生きる自由   ヨハネの福音書8章31~36節

 

罪の奴隷から クリスチャンになるということは、イエスは救い主であると信じるだけではなく、イエスの弟子となることです。「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」31-32)イエスの弟子となるには一時的に信じるだけでは十分ではありません。必要なことはイエスの言葉にとどまり続けること、つまりイエスに聞き従うことです。けれども、ここでイエスを信じたユダヤ人たちは、イエスが救い主であることは認めるけれども、自分は今のままでかまわないと考えました。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」33)自由であるとは、奴隷の身分ではないこと。これが当時の社会の一般的な「自由」です。けれども、奴隷であろうとそうでなかろうと、イエスが語っておられることは、すべての人は自由を失った状態にあるということです。イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」34)生まれながらの私は、自分が罪の奴隷であると認めることができません。たしかに私にも罪はあるかもしれない。けれども私よりももっとひどい人はたくさんいる…いつの間にか神ではなくほかの誰かと比べている自分がいます。そして私の心の奥深くに見えるのは神抜きで生きようとしている自分自身の姿です。ほかの誰かではなく私は生まれながらに罪の奴隷であったということ。これは聞きたくない知らせです。けれどももし認めないなら自由もありません。罪の奴隷のままです。なぜ私にはイエスが必要なのか。私は生まれながらに罪の奴隷だからです。

 

キリストの弟子へ 「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。」35)イエスは一時的に神のひとり子なのではなく、永遠に神のひとり子です。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」36)私は罪の奴隷だけれども、神のひとり子イエスは私を罪の奴隷から自由にしてくださいます。神のひとり子イエスが私を自由にするために十字架で死に、死からよみがえられたからです。神のひとり子として、イエスは私を罪の奴隷から自由にし、神の家族に迎えてくださいます。ですからイエスが言われる自由とは、イエスの弟子となることによって神の子どもとして迎えられる自由です。真理はイエス・キリストのことばと生き方のうちにあります。自由はイエスの弟子として生きる道にあります。イエスの弟子として生きるとは、神に愛されている神の子どもとして、神のひとり子イエスに従っていくということです。イエスの弟子となり、神の子どもとして生きる道、それこそが本当の自由であり、私たちが歩むべき本来の道なのです。