2021年11月14日礼拝

神の民が一つであるのは   ヨシュア記22章(朗読2134節)

神の民は一つ 22章で語られるのは、ヨルダン川の向こう側の割り当て地に渡ったルベンとガドとマナセの半分の部族がそこに祭壇を築いたことについてです。ここにあるのは神の民の一致というテーマです。ヨシュアが3つの部族を祝福して、これからも主に従って歩むようにと教え諭した上で送り出すと、彼らはヨルダン川の東に自分たちのための祭壇を築きました(10)。それを見聞きした川のこちら側の10の部族は彼らと戦おうと集まります(12)。分裂を引き起こす偶像礼拝のように見えたからです。彼らはひとまず調査団を送ることにしました(13-15)。

彼らの訴え(15-20)に対して、3つの部族はまず、「神の神、主よ、神の神、主はご存じです」22)と弁明し始めます。彼らが祭壇を築いたのは生半可な覚悟によってではありませんでした。もし偶像礼拝や分裂のためであるのなら、神が私たちをさばかれるように(22-24)と、そこまでの覚悟で彼らは祭壇を築いたのでした。彼らと他の部族との間にはヨルダン川が横たわっています。時間がたつにつれて、「あなたがたとイスラエルの神、主との間に何の関係があるのか」(24)と、ヨルダン川がだんだんと民の間の心の距離になっていくことは十分ありうることでした。だから祭壇を築いたのです。けれどもそれはシロの祭壇のようないけにえをささげるためのものではありませんでした。3つの部族の築いた祭壇は「証拠」としての祭壇です。祭壇が築かれた目的は、神の民の一致のため、そして神への信仰が次の世代に受け継がれるためでした。これを見るたびに、彼らは自分たちがこれからも神の民として歩むことを確認できるように、そして次の世代に主を礼拝する民として歩むことを伝えるために、シンボルとしての祭壇が築かれたのです。

 

 

ひとりの神に従う 調査に遣わされた他の10部族の代表者たちは、彼らが祭壇を築いた目的を聞いて満足し、民は「神をほめたたえ」(33)ました。3つの部族が祭壇を築いたこと、10の部族がそれを責めたことも、どちらも神のためにと思ってしたことでした。彼らがお互いに自分たちだけを正しいとしてしまったらその正しさは混乱と争いと分裂を生むところでした。問題が起こることは避けたいことです。けれども、私たちが神の民であることのしるしは問題が起こらないことではありません。一致を確かなものにするために問題が起こることが必要なこともあるのです。イスラエルの民は、この問題を通して自分たちの一致の土台は何かを確認することができました。イスラエルの民の一致の土台がもし住んでいる土地であるなら、ヨルダン川のあちらとこちらにいつ分裂が生じてもおかしくありませんでした。けれども、イスラエルの民の一致の土台は住んでいる土地ではありません。同じひとりの主を信じ、主を礼拝し、同じ主に従うということ問題を通して確認する。問題を解決したのは力によってでもなく、問題をなかったことにすることによってでもありませんでした。私たちはキリストのゆえに神の民とされました。私たちが神の民である一致の土台はただ一人の救い主、イエス・キリストです(エペソ4:1-6)。私たちは同じ主を信じ同じ主を礼拝し、同じ主に従っていきます。そして次の世代に、同じ主に喜んで従っていく信仰を受け継いでいくのです。