2021年11月28日礼拝

これからも主の民として   ヨシュア記23章1~10節

私たちを救うために戦われる主 ヨシュア23ー24は、年を重ねて高齢になったヨシュアがイスラエルの民に最後に語った告別のメッセージです。ヨシュアはイスラエルの勇敢なリーダーでした。神のことばに従い、人々を励まし、カナンの地でのいくつもの戦いに勝利しました。けれども、ヨシュアがここでイスラエルの民とともに思い起こしているのは、自分の残した功績ではありませんでした。「あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。」3)ヨシュアが何度も繰り返し強調しているのは、カナンの地でイスラエルの民が勝利できたのは主がイスラエルのために戦ってくださったからだということです。私たちの主は戦われる神です。もちろん、主は戦われる神であるということは、神は戦争がお好きという意味ではありません。また神は今の私たちに武力戦争を勧めているわけでもありません。にも関わらず、主は戦われる神です。それはどういうことか。はっきりいえることは、もし主が私たちのために戦ってくださらなければ私たちは救われないうことです。カナンの地では戦いが続いたのは、カナンの地に働いている罪の力があまりに強かったからです。不道徳と偶像礼拝の罪の力と主は戦われ、イスラエルの民も主とともに戦いました。私たちを救うために戦われる神、私たちにとってこのお方はイエス・キリストです。私の中には自分ではどうすることのできない罪の力が働いています。そしてこの世界にも、罪の暗闇は満ちています。イエス・キリストは私を救うために、そしてこの世界を救うために、罪と死の力と戦ってくださった。それがイエスの十字架と復活です。私たちは将来のことをすべて見通すことはできません。主がしてくださったことを思い起こすことは、これからも主に期待してより頼むことの大きな助けになります。私たちもまたこの礼拝で、そして日々みことばを聞き祈る中で神がしてくださったことを思い起こし、そのたびに、神とともに生きることを決意するのです。

 

主だけに頼り、みことばにとどまる 「また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。」6)主の民として歩むために必要なことは神のことばを守り行うことですが、それは自分の力でできることではありません。罪があり、罪の力に負けてしまう弱さがあるからです。だから7節約束の地カナンの地はすばらしい場所です。と同時に、そこには大きな誘惑がありました。カナンの地は豊かな地です。同時に、カナンの地の民族は道徳的にも性的にも乱れており、その乱れが彼らの宗教にも表れていました。神から離れ、この世の力と自分自身の欲望に従う誘惑の力は今も昔も働いています。主にとどまるのか、離れてしまうのか。神の言葉を守り行うために必要なことは、「主にすが」る(8)ことです。神が先頭に立って導いてくださる。私は主に従って自分に与えられた道を一歩一歩歩いていくのです。その道しるべが神のことばです。神がしてくださったことを思い起こし、物語りながら、私たちはこれからも神の民として生きるのです。