2021年12月26日礼拝

キリストは世の光  ヨハネの福音書8章12節

 ・イエスは「わたしは世の光です。」と語られます。イエスが「わたしは~です」と語られるときは、ご自分を何かにたとえているだけではありません。イエスが神としてご自身を示しておられるときです。イエスが「世の光」であるとは、イエスがこの世界を照らす神ご自身であるということです。古代イスラエルにおいて、光とは燭台にともされる光のことでした。光は見えなかったものを見えるようにします。光によって、私たちはこの世界の姿をみることができます。同時に、世の光であるイエス・キリストが照らすのは、私たちの心です。まるでランプやろうそくの光によって、私たちの心を照らしてくださるとき、なにが見えるようになるのでしょうか。それは私自身の本当の姿です。神が私たちの心を照らしてくださるとき、私は自分自身が神に背を向けた罪がある罪人であることを知ります。同時に、そのような私をなおも神が愛してくださっていることを知ります。まじめだから優秀だからいい人だからではなく、罪人であるにも関わらず、神は私を愛してくださっている。神は目に見えない方です。だから人は自分の知恵や力によっては神を知ることができません。けれどもイエスは世の光です。イエスによって神を知らなかった人が神を知ることができるようになります。聖書が証しするイエスの生き方、ことば、十字架とよみがえりによって、神は罪人の私を愛してくださることがわかるようになります。神を知ることは神を信じることです。

 

・そして信じるとは心で納得することだけではありません。イエスを信じるとはイエスについて行くこと、従っていくことです。だからイエスは言われるのです。「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」イエスはすべての人に、イエスを信じてついていく弟子となるようにと招いておられます。イエスを信じ従っていく歩みは、信仰告白と洗礼によって始まります。「闇」とは神を知らないことです。<闇の中を歩く>とは神を知らずに悪魔に支配された生き方のことです。闇の中を歩けば行き着くところは死と滅びです。私たちは以前はそのように生きていました。けれどもそうではない生き方があります。イエスに従って生きるなら、行き着くところはは永遠のいのちです。闇の中を死と滅びに向かっていた生き方が、光の中をいのちに向かって生きる生き方に変わる。これが救いです。イエスに従う生き方は、神の愛を知ったものとして、神を愛し、人を愛する生き方です。イエスに従うことは自分の力ではできないことです。けれども聖霊が助けてくださいます。私を愛してくださっている方に喜んで従っていくこと。そこからそれてしまっていると気づかされたらすぐに神に立ち返ること。神を礼拝すること、聖書を読むこと、祈ること。この基本的なことからもう一度始めましょう。今年も、また来年も、私たちは世の光であるキリストに従っていくいのちの道を歩んでいくのです。