2021年1月10日礼拝

主のあわれみによって ヨシュア記9章1~14節

出来事の中で主に目を留める ・イスラエルの民はカナンの地でエリコとアイを打ち破りました。これを聞いたカナンの地の王たちは「ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとし」2)ました。彼らが見ていたのは目の前の戦いの結果だけです。カナンの王たちはイスラエルの民がなぜエリコとアイに勝つことができたのかには目を留めようとしませんでした。イスラエルの民が勝つことができたのは、彼らが強かったからでも優秀だったからでもありません。主がともにおられたからです。けれども、カナンの王たちは主に目を留めようとはしませんでした。イスラエルの民の中で働いている主の力には目を留めようとしなかったのです。クリスチャンになれば次々と特別な体験をするようになるというわけではありません。それまでと同じ世界で日々の生活を営むことには変わりはないのです。けれども見方が変わるのです。私たちの普段の生活の中で起こる出来事も、その中で主に目を留めるなら、見方が変わってきます。そこに主が働いておられるからです。

 

罪の現実 ・カナンの地にも、主に目を留めようとした人たちがいました。それはギブオンのヒビ人です。彼らが選んだのはイスラエルと盟約を結ぶ道でした。彼らはカナンの王たちとは違い、「主のうわさ、および主が…なさったすべてのこと」9-10)を聞いて、イスラエルの民の中に主の力が働いていることに気づいていました。問題となるのは、ヒビ人たちがヨシュアとイスラエルの目を欺くために「策略をめぐらし、変装をした」4)ことです。彼らはカナンの住民には見えないように、わざとぼろぼろの服を着て、遠くからやってきた旅人のふりをします。主はイスラエルの民に、カナンの住民と契約を結ばないようにと堅く命じているからです(申命記7:1-2他)。人を欺くことには道義的な問題があります。しかも、問題があるのはヒビ人だけではありません。イスラエルの民もまた、彼らと盟約を結ぶことに関して「主の指示を求めなかった」14)のです。みこころを求めず自分たちだけの判断で決めてしまいました。 

 

 

私たちの中に示される主のあわれみ ・ヨシュア記で語られていることは世界の理想の姿ではありません。そこには嘘偽りがあり、神の民の中にも神に従わない罪があります。ヨシュア記が語るのは、罪も過ちもあるこの世界の現実の中で神がどのように働いておられるのかなのです。 もちろん、神は私たちに嘘偽りを勧めているのではなく、みこころを求めなくてもよいと教えているのでもありません。この世界にも、私たちの中にも罪があり、過ちがあります。けれども、私たち人間の罪と過ちにも関わらず、神は救いのわざを行われる方です。だからこそ神のひとり子は人となられたのです。主イエス・キリストは罪に満ちたこの世界に来られ、罪と苦しみと矛盾に満ちたこの世界で生きられ、罪の結果である十字架にかかられました。そこにしか罪ある私たちが救われる道はないからです。私たちは主のあわれみによって救われ、生かされています。イエスはよみがえられ、私たちの人生を通して救いのわざを行っておられます。日々の出来事の中で、主のあわれみと恵みに目を留めながら歩むことができますように。