2021年1月17日礼拝

遠くから近くへ   ヨシュア記9章15~27節

どのようにして救われたのか ・イスラエルがエリコとアイに勝利したとき、カナンの地の多くの町は力を合わせてイスラエルと戦うことを考えますが、ギブオンのヒビ人だけはイスラエルと盟約を結ぼうとしました。問題は彼らがイスラエルを欺く策略を用いたことです。さらに、遠くからの旅人に変装したヒビ人を見て、イスラエルの民は主のみこころを求めず盟約を結んでしまいます。その三日後、彼らはカナンの地の住民であり、イスラエルの民が滅ぼすように命じられていたヒビ人であったことが発覚します。イスラエルの民はヒビ人が住む4つの町まで押し掛けていきますが、彼らを滅ぼしてしまうことはできません。イスラエルの民は族長たちに不平を言いますが、盟約が取り消されることはありませんでした。「主にかけて彼らに誓った」18,19)盟約だからです。族長たちは二度「彼らを生かしておこう。」20,21)と宣言します。彼らが生かされたことには、彼らが命拾いをしたということ以上の意味があります。いのちは神との交わりの中にあります。これからヒビ人はイスラエルの民の中で、主との交わりの中で生きるのです。これまでは外から見てただ恐れているだけでした。これからは主とともに主の守りの中で生きることになるのです「ヨシュアは彼らが言うようにし、彼らをイスラエルの子らの手から救った。それで彼らは殺されなかった。」26)私たちはどのようにして救われ、神との交わりに生きるようになったのでしょうか。ヒビ人がヨシュアによっていのちを救われたように、私たちは自分がしたことによってではなく、救い主イエスによっていのちを救われ、神との交わりの中に招かれました。私たちは日々、自分がどのようにして救われたのかを思い起こす必要があります。今がどのようなときであっても、救いの喜びは私たちを生かす力となるからです。

 

 

どのようにして神の民とされたのか ・いっぽうで、ヨシュアはイスラエルの民を欺いたヒビ人にのろいを告げます「今、あなたがたはのろわれる。あなたがたの中から、奴隷たち、私の神の家のために薪を割る者と水を汲む者が絶えることはない。」23)これは彼らがイスラエルを欺いたことへの報いでした。けれども、結果的にヒビ人はイスラエルの民の中に加えられ、主に従う者となりました。「薪を割る者と水を汲む者」21)とは「会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で」27)働く働き人です。薪は祭壇でささげものを燃やす薪、水は集会でのきよめの水です。つまり礼拝の奉仕のために働きなのです。礼拝とは神に近づくことです。もっとも神から離れていたヒビ人が、神に近づくものとされたのです。 ・ギブオンのヒビ人は遠くの旅人に変装して助けを求めました。彼らはある意味では遠くの旅人だったのです。彼らは神からも神の民からも遠く離れた滅びに向かう罪人でしたが、神に近づくものとされました。私たちひとりひとりも同じです。私たちも以前は神の民ではありませんでした。私たちは神の民、礼拝の民とされていることは当たり前のことではないのです。必要なことは思い起こすことです。私のしたことによってではなくイエスの死といのちによって神の民とされました。罪によって神から遠くに離れていた私たちが、イエスの血によって、神との交わりに生きる民とされました(エペソ2:1113)。私たちはどんなときも神の近くで神の民として生きるのです。