2021年1月24日礼拝

私を神に導くために     ペテロの手紙第一3章18節

 

神が苦しむ? ・<ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け>と、総督ピラトの名前が聖書と使徒信条の中にあるのは、イエスを十字架につける決定を下した人だからです。当時の世界では、神は苦しまないと考えられていました。神は完璧で何でもできて、力があって強い方。もし神が苦しむとしたらその神は弱々しい、力がない神ということになってしまう、だから神は苦しまないと多くの人は考えていました。けれども、使徒信条は神である方が苦しまれたとはっきりと言い表します。救い主イエスが味わわれた苦しみとはどのような苦しみでしょうか。

 

正しい方が正しくない者のために ・「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。」イエスの苦しみは正しくない者である私たちのために、正しい方が負われた苦しみです。旧約聖書の時代には人の罪が赦されるためには、傷のない動物の犠牲がささげられなければなりませんでした。動物のいのちが人の罪の身代わりとなったのです。イエスの十字架はただ一度の完全なささげものであり、すべての人の罪が赦されるための、ただ一度の完全な苦しみです。イエスはただ一人正しい方、神の前に罪のない方、父である神の近くにおられた神ご自身です。反対に、私は神の前に正しくない者、神に近づくことができない者です。イエスを十字架につけろと叫んだ人たち。あざけり、むち打ち、唾を吐きかけたローマの兵士たち、黙って、抗議しようともせずに見ていた人たち、イエスが正しいと知っていながら助けようとしなかったピラト、イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たち…私たちもその一人です。すべての人の中にイエスを十字架につけた罪があります。神に背を向け、神ではなく自分を心の中心におこうとする私の罪です。神ではなく、自分を生き方の中心におこうとする私の罪です。イエスは正しくない者である私の身代わりに苦しまれ、死なれたのです。

 

 

苦しみは苦しみでは終わらない ・「それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」イエスはポンテオ・ピラトのもとで私たちの罪のために苦しまれ、十字架でたしかに死なれました。けれどもイエスの苦しみは苦しみでは終わりませんでした。イエスの苦しみは私たちを「神に導く」ための苦しみです。イエスは苦しみと死を乗り越えて向こう側に行かれ、よみがえられました。クリスチャンになるとは私のために苦しみを受け、よみがえられたキリストと結ばれることです。私たちはキリストを通して神に近づくことができます。まず神がキリストの苦しみによって私に近づいてくださいました。なぜなら私たちの中にも苦しみがあるからです。神は私たちの苦しみを遠くで見ている方ではありません。私たちの苦しみはイエスの苦しみにつながっています。私たちに必要なことは苦しみと死に勝利し、よみがえられたイエスについていくことです。そこに神に導かれる道と、神に近づく喜びがあるからです。だから私について来なさいと今日もイエスは招いておられるのです。