2021年1月31日礼拝

神へと向かう旅のはじまり    詩篇120篇

偽りと欺き ・詩篇120以降の「都上りの歌」はエルサレムへの巡礼の旅の歌です。聖書は神の物語であると同時に、神に向かって旅する者たちの物語でもあります。神から呼ばれたそのとき、もし彼らが現状にすべて満足しきっていたなら、旅に出る必要はなかったはずです。今の生き方には何かが足りない。何かがおかしい。生きていくってこんなものなのか。本当にそうなのか。神への旅の始まりは神への飢え渇きです。「苦しみのうちに私が主を呼び求めると/主は私に答えてくださった。/主よ 私のたましいを/偽りの唇 欺きの舌から/救い出してください。」1-2)彼は嘘偽りに取り囲まれています。これが彼の苦しみです。この世界で語られるさまざまなことばを通して悪魔は働いています。神など信じても信じなくても何も変わらない。すべては自分次第…この世界ではこういったことが当然のこととして空気のように自然に受け入れられています。神抜きでも変わらない。神抜きでも何とかなる。実はこれこそがエデンの園でアダムとエバが蛇によってそそのかされた誘惑でした。アダムとエバ以来、人は真実のことばを捨てて、偽りのことばに支配されるようになりました。私たちもまた偽りのことばに取り囲まれ、影響を受け続けています。「欺きの舌よ/おまえに何が与えられ/おまえに何が加えられるだろうか。/勇士の鋭い矢/そして えにしだの炭火だ。」3-4彼は偽りの声に対して主が正しいさばきがなされることを願い求めます。偽りと欺きの声から彼を救うことができるのは神のことばだけです。鋭い矢のように、燃える炭火のように、神のことばには力があるからです。

 

 

神のほうを向く  ・「ああ 嘆かわしいこの身よ。/メシェクに寄留し/ケダルの天幕に身を寄せるとは。/この身は/平和を憎む者とともにあって久しい。/私が 平和を──と語りかければ/彼らは戦いを求めるのだ。」5-7メシェクは小アジア、ケダルはアラビア半島の地名です。彼は今自分が神を礼拝する場所から遠く離れていることを嘆いています。神抜きの価値観の中で、日々その影響を受けながら、時にはその価値観にどっぷりつかりきってしまっているようにも感じながら、彼は平和を憎む者とともに生きています。平和(シャローム)とは神によって与えられるものであり、すべてがよい状態、すべてが満たされ、すべてが完全である状態です。彼は本当の平和を求めています。そして神の民にとって平和は神との交わりによって生まれるものです。彼は神との交わりに飢え渇き、エルサレムに旅することを願っています。けれども今すぐには旅にでることができません。だから助けを求めて主に祈ります。苦しみの中で主に助けを求めることがすでに一つの旅なのです。世の中にある何かではなく、天と地を造られた方に助けを求めること。神は救い主イエス・キリストを通して、私たちの呼び求めに答えてくださいます。イエスは偽りと欺きの中で苦しみを味わわれ、十字架と復活によって偽りと欺きの力に勝利されました。神へと向かう旅のはじまりを聖書は「悔い改め」と言い表します(マルコ1:15)。悔い改めるとは何かを反省することではありません。方向を変えることです。神の方を向いていなかった自分に気づいて神の方を向くこと。祈りによって、礼拝することによって、今週も私たちは私たちは神へと向かう旅、イエスに従っていく旅に出るのです。