2021年2月14日礼拝

 主よ あわれんでください    詩篇123篇

嘆いてもいい ・詩篇は神への賛美ですが、喜びだけが歌われているわけではありません。詩篇の中には嘆きの歌も多く含まれています。詩篇の賛美は礼拝の歌です。私たちはいつもうれしい気持ちで感謝にあふれて礼拝にくるとは限りません。悲しい気持ちでくることもあります。それでよいのです。詩篇の賛美は、私たちは悲しみや嘆きの中で神を礼拝してもよいのだということを教えます。「あわれんでください 主よ あわれんでください。/私たちは蔑みでいっぱいです。/私たちのたましいは/安逸を貪る者たちの嘲りと/高ぶる者たちの蔑みでいっぱいです。」(-)「蔑みでいっぱい」なのは戦いに敗れて敵に虐げられているからなのか、経済的な困難の中にあるのか、神の民であるゆえの不当な扱いや迫害を受けているからなのか…人から嘲られること、蔑まれることは人にとって何よりも耐え難いことです。主は私たちの心の思いを知っておられます。主は決して高ぶることがない方、彼がどんな状況にあっても、馬鹿にしたり蔑んだり見下したりすることは決してない方です。しかも、主は高ぶる敵よりもはるかに強い方です。嘆き悲しむのは主を疑っているからではありません。信頼しているからです。信頼しているから嘆くのです。

 

主はどんなときも私たちの味方 ・「私たちの目は私たちの神 主に向けられています。/主が私たちをあわれんでくださるまで。」(3)<あわれむ>のもともとの意味は、好意を示すこと。つまり「あわれんでください」とは、私に好意を示してください、私の味方になってくださいという祈りなのです。誰も味方になってくれない、誰も助けてくれないように思えるときでも、主は私たちの味方です。私たちの中にある、嘲られ、蔑まれる痛みを主は知っておられます。十字架に向かう中でイエスが味わわれたのは人々に嘲られ蔑まれる苦しみです。神である方が嘲りと蔑みの中で死なれたのです。けれども主イエスの十字架は嘲りと蔑みにあらわれている罪の力への敗北ではありませんでした。主は復活によって、嘲りと蔑みを生み出す罪の力に勝利されたからです。彼は主の前で苦しみ嘆きうめいています。けれども、完全に支配されてしまうことはありません。彼の心も体も完全に支配しておられるのは天におられる主だからです。主は私の味方となり、助けてくださる方です。

 

信頼の目を天に向けよう ・「あなたに向かって 私は目を上げます。/天の御座に着いておられる方よ。/まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ/仕える女の目が女主人の手に向けられるように」(1-2)「天の御座」はそこから主が王としてすべてを治めておられる神の住まいです。彼は主の守りに信頼しています。主が御手を動かして私の味方になってくださる。私を守ってくださる。思いが沈むときにも、その思いを天に向けることから祈りが生まれます。世界の支配者である主は私たち一人一人をあわれんでくださる方です。だから嘆いてもよいのです。主はどんなときも私の味方です。信頼の目を天に向けて、私たちはこれからも歩いていくのです。