2021年2月28日礼拝

 祝福への道    ガラテヤ人への手紙3章13~14節

使徒信条はイエス・キリストが「十字架につけられ」たと言い表します。神の救いの方法はなぜ十字架なのでしょうか。十字架が意味するのは「のろい」です。「のろい」は祝福の反対です。祝福は神から与えられるすばらしいもの。いっぽうで、のろいとは、悪いものに対する神の怒りとさばきです。神はこの世界と私たちにもっておられる計画は祝福です。神はこの世界のすべての人の祝福のために、アブラハムを選び、モーセを通して、イスラエルを奴隷となっていたエジプトから救われました。このとき神がイスラエルの民に与えてくださったのが律法です。律法が示すのは神を愛し人を愛する生き方です(マタイ22:37-40)。まず神が私たちを愛してくださっているからです。けれども、私たちは神の愛を受け入れることができません。私たちの中には、自分が神であるかのように、自分中心に生きていこうとする罪があるからです。だから神の愛を受け入れ、神を愛することも人を愛することもできません。神の怒りとさばきのもとにある。これが以前の私たちの姿でした。

 

キリストは私たちのために 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」(13)木にかけられ」るとは犯罪者や盗人が死刑になることを意味します。イエスは罪のない方、正しい方なのに、木の十字架につけられて死なれました。神の怒りとさばきを受けなければらならない「のろわれた者」は私たちです。私たちは神を王の位から引きずりおろそうとし、王の位を奪おうとする罪人だからです。にもかかわらず、神のひとり子である方が、ただひとり正しい完全な方が神の怒りとさばきを受けられました。神がそれほどまでに、のろわれた者である私を見捨てずに愛していてくださるからです。イエスの十字架は私たちの身代わりの死でした。イエスは十字架で、私たちが受けるべき神の怒りとさばきを私たちの身代わりに受けてくださいました。イエスの十字架と復活によって、のろいと死は打ち破られました。

 

信仰によって 私たちの祝福といのちは神の子どもとして生きるところにあります。神の子であるイエスが十字架で死なれ、よみがえられたのは、私たちを神の子どもとするため神の子どもとして生きるためです。私たちが失っていた、神が造られた人間本来の生き方私たちはどうすればのろいではなく祝福に、死ではなくいのちに生きることができるのでしょうか。信仰によってです。「それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」(14)信仰とは神が私のためになさった救いのみわざに信頼してイエスについて行くことです。アブラハムがそうであったように、私たちにも選ぶ道があります。アブラハムは祝福への道を歩みました。神はキリストの十字架によって、私たちにも祝福への道を開いてくださいました。主が与えてくださった「御霊」の助けによって、祝福への道を選び歩んでいくことが今日も求められているのです。