2021年2月7日礼拝

さあ 主の家に行こう    詩篇122篇

 巡礼の旅を終えてエルサレムに着いた旅人は、旅に出た時のことを思い出します。「『さあ、主の家に行こう。』/人々が私にそう言ったとき 私は喜んだ」(1)私たちにとって「主の家」はイエス・キリストのからだである教会です。教会の礼拝に行くことはあなたにとって喜びですか?

 

礼拝は神の民の証し 「エルサレムよ 私たちの足は あなたの門の内に立っている。/エルサレム それは/一つによくまとまった都として建てられている。そこには 多くの部族 主の部族が上って来る。」(2-4)エルサレムが「よくまとまった都」であることは、神の民イスラエルが一つにまとまっていることを表します。まとめてくださるのは主です。私たちもまた、主イエスが注いでくださる聖霊によって一つにまとめてくださるからこそ、神の民として集まることができるのです。「イスラエルである証しとして/主の御名に感謝するために。」(4)各地に散らされたイスラエルの民は、エルサレムで神を礼拝することで、自分たちはモーセの時代にエジプトで奴隷であったこと、神の力によって解放された神の民であることを思い起こすことができました。私たちも日常生活の中で、変わりゆく社会の価値観の影響を受けながら、時に自分を見失いそうになることもあります。教会で神に礼拝をささげる中で、私は神に選ばれ、愛されている神の民であることを確かめることができるのです。神の民がひとつに集まり、礼拝をささげるのは主の御名に感謝するためです。エルサレムでの礼拝の中心は祭壇でささげられる動物のささげものと、語られる神のことばです。「そこには さばきの座/ダビデの家の王座があるからだ。」(5)神の民は礼拝において、ともにみことばを聞き、救いの恵みを味わいます。エルサレムは「さばきの座」「ダビデの家の王座」であり、神が王としてみことばを語られる場所です。神の民が集まって感謝をささげ、神のことばが語られる場所が主の家、神の教会なのです。

 

 

神の平和を求める者として遣わされる 「エルサレムの平和のために祈れ。/「あなたを愛する人々が安らかであるように。/あなたの城壁の内に 平和があるように。/あなたの宮殿の内が 平穏であるように。」/私の兄弟 友のために さあ私は言おう。/「あなたのうちに 平和があるように。」/私たちの神 主の家のために/私はあなたの幸いを祈り求めよう」(6-9)<祈れ>の元々の意味は<求めよ>です。つまり、ここで勧められているのは礼拝の儀式的祈りではなく、日々の生活の中で神に平和を願い求めて一人一人が生きることです。礼拝が終われば神の民のつとめが終わったのではないのです。神との平和を与えられたものとして遣わされていくことが神の民のつとめです。イスラエルの民のように、私たちは教会で主を礼拝する神の民として、教会のために地域とこの世界のために、家族や友人ののために、平和を求め祈ります。すべてを主が治めてくださるように。私たちを通して神の平和でこの世界が満ちるように。神の国の完成という大きな使命のために、私たちは礼拝の民として集められ、この世界に遣わされるのです。一人一人にとって、2021年が神を礼拝することを喜びとなる一年となるように、「さあ 主の家に行こう」と励ましあいながらともに歩んでいきましょう。