2021年3月14日礼拝

 回復の喜びを胸に  詩篇126篇

詩篇126篇が歌う喜びはひとことでいえば回復の喜びです。神が私たちクリスチャンに与えてくださる大きな喜びもこの回復の喜びです。

回復の喜びを思い起こさせてくださる主 「主がシオンを復興してくださったとき/私たちは夢を見ている者のようであった。/そのとき 私たちの口は笑いで満たされ/私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。」(1-2)これは旧約のユダヤ人がバビロン捕囚から解放された出来事であると思われます。主は必ず捕らわれの民を連れ戻してくださるという約束はありましたが、実際に味わった喜びは想像以上でした。さらに、この出来事はまわりの国の人々にも伝わることになりました(2,3)私たちにとって、回復の喜びとは神との関係の回復の喜びです。父なる神は私たちのためにひとり子イエス・キリストのいのちをお与えになりました。それは私たちの人としての本来の姿の回復のためです。罪により神から離れ、罪の奴隷であった私が、イエスの十字架と復活によって神の子どもとされたこと。神を礼拝するとき、聖書を読み祈るとき、誰かと救いの出来事を分かち合うとき、神は神の方法で回復の喜びを思い起こさせてくださいます。

 

回復は進行中 ユダヤ人たちは故郷エルサレムに帰ってくることができましたが、目の前には荒れ果てたエルサレムの姿があります。彼らがすべきことは廃墟を建て直し、荒れ果てた大地を耕すことです。そこには苦しみや悲しみもあります。「主よ ネゲブの流れのように/私たちを元どおりにしてください。」(4)ネゲブは渇いた地であり、冬の雨でごくまれに小川が流れることがありました。ネゲブがあらわすのは、私たちのたましい渇きを満たし、心を新しくする神の恵みの流れです。私たちの回復も進行中です。クリスチャンになって終わりではないからです。目の前には私たち自身、またこの世界の現実があります。クリスチャンになったから終わりではなく、そこからが始まりなのです。必要なのは聖霊による神の恵みの流れを祈り求めることです。今も回復は進行中なのです。

 

 

すべてを喜びに変えてくださる主 「涙とともに種を蒔く者は/喜び叫びながら刈り取る。/種入れを抱え 泣きながら出て行く者は/束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。」(5-6)農夫が種をまくことには労苦があります。収穫までの間、時間と労力がかかるからです。私たちはすぐにキリストに似た者に変えられるわけではありません。成長には時間がかかります。みことばに聞き従って新しい人として生きる道には時に苦しみや嘆きもあります。けれどもそれはただ苦しいだけの歩みではありません。私たちの中にはすでに、神の子どもとされた回復の喜びがあるからです。この喜びを胸に私たちはイエスについていくのです。農夫に収穫への希望があるように、私たちにも完成への希望があります。神の子どもとされた者が完全にキリストの姿に変えられる希望です。そのときすべては喜びに変わります。今も主の回復の計画は進行中です。私たちに必要なことは神の子どもとされた喜びを思い起こしながら歩むこと、神がすべてを喜びに変えてくださる約束に信頼して一歩一歩歩んでいくことなのです。