2021年4月11日礼拝

幸いなことよ  詩篇128篇

主の呼びかけに応えて生きる幸い 私たちの住む日本では多くの人が自分は幸いな人生を歩んでいないと感じています。「幸いなことよ/主を恐れ 主の道を歩むすべての人は。」(1)詩篇128は、幸いな人とは、「主を恐れ、主の道を歩む」人のことだと語ります。主を恐れることは主の道に歩むことです。神のみことばによって、神は私たちに幸いな人生を歩むことができる生き方を示されました。本当の幸せは、主の呼びかけに応える生き方の中にあります。私たちは自分の力では主の道を歩むことができません。神に背を向けた古い罪の性質によって歩もうとします。神は主イエスの十字架と復活によって、私たちが古い自分に死に、主の呼びかけに応える新しい人として生きる道を開かれました。私たちが主の呼びかけに応えるのは聖書を読んでいるとき、礼拝しているとき、教会で奉仕しているときだけではありません。問われているのは私たちの生き方です。日々みことばに応えて生きることには戦いがあります。けれども、遣わされた場でみことばに応えて生きる人は幸いです。そこには大きな祝福があるからです。

 

祝福は生きることの回復 神がくださる祝福とは一言でいえば、生きることの回復です。「あなたがその手で労した実りを食べること/それはあなたの幸い あなたへの恵み。」2)働いてその実りを分け合うこと、家庭を築き、家族で食卓を囲むことは神が世界を造られたときから神が人に与えてくださったかけがえのない喜びでした。けれども人間の罪によって神との関係が損なわれたとき、神が告げられたさばきにより、働くことが苦しみになり、家庭を築くことも苦しみを伴うようになりました(創3:16-19)。神が与えてくださる祝福はまずこの地上で働くということが本来の姿を取り戻すこと、家族の関係が本来の姿を取り戻すことができるようになるということです。祝福は神が本来備えてくださっていた生き方の回復です。私たちはその回復の歩みを歩み始めたということです。

 

 

祝福を受けた者は祝福の源となる 「あなたの妻は 家の奥で/たわわに実るぶどうの木のようだ。/あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき/まるでオリーブの若木のようだ。/見よ 主を恐れる人は/確かに このように祝福を受ける。」3-4)ここでは神が与えてくださる祝福が夫にとっての妻と子どもたちの姿を通して描かれています。ここで目を留めたいことは、妻や子どもが「実」ではなく「木のようだ」といわれていることです。神が与えてくださる祝福は一時的なものではなく、私たちがいつまでも豊かな実を実らせる木のようになること。私たちは血筋によってでも自分の能力によってでもなく、イエス・キリストの恵みによって神の民とされ、神の民の祝福を受けています。私たちが祝福を受けるのは私たち自身が祝福の源となるためです。「主がシオンからあなたを祝福されるように。/あなたは いのちの日の限り/エルサレムへのいつくしみを見よ。/あなたの子らの子たちを見よ。/イスラエルの上に平和があるように。」(5-6)主のみことばに聞き従って歩むなら、私たちの家庭、働きが本来の姿へと変えられていきます。そして神のご計画は、私たちを通して神の祝福がこの世界の多くの方々に受け継がれていくことなのです。