2021年4月25日礼拝

主よ 私の声を聞いてください    詩篇130篇

神を呼び求めるのに遠すぎる場所はない 「主よ 深い淵から私はあなたを呼び求めます。/主よ 私の声を聞いてください。/私の願いの声に耳を傾けてください。」(1-2自分ではどうすることもできない何かによって彼は苦しんでいます。「深い淵」は彼の心の状態であり、神がとても遠くに感じられることを表します。けれども詩篇130がはっきり語ることは、私たちはどんな状態にあっても、そこから神を呼び求めることができるということです。イエス・キリストは神から遠く離れた場所に思われる家畜小屋で生まれ、神から見放されたかに思われた十字架で死なれました。神から遠く離れていた私たちを救うためです。たとえどんなに神が遠くに思われるときでも、私たちは神の愛から切り離されることはありません(ローマ8:38-39)。

 

罪を赦してくださる方に祈る 「主よ あなたがもし 不義に目を留められるなら/主よ だれが御前に立てるでしょう。/しかし あなたが赦してくださるゆえに/あなたは人に恐れられます。」(3-4神は私たちのすべてを知っておられる方です。私たちの中には神に背き、神を受け入れず、神が望まれている道から離れようとする罪があります。神は罪を憎まれる方です。罪に怒りを燃やされる方です。もし神が罪を赦してくださらない方だとしたら、神を呼び求めることに何の意味があるでしょうか。罪の赦し、それは大きな犠牲と痛みを伴うことです。神が私たちの罪を赦してくださるとは、罪の赦しのために神が苦しまれたということです。私たちはどんなときも祈りを通して、私の罪を赦してくださる神に恐れをもって近づくことができるのです。

 

主を待ち望む祈り 「私は主を待ち望みます。/私のたましいは待ち望みます。/主のみことばを私は待ちます。/私のたましいは 夜回りが夜明けを/まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」(5-6主よ。いつまでですか。そういう祈りがあります。苦しみの中にあるとき、私たちはこの苦しみに対して、神が力あるわざを行ってくださることを待ち望みます。「夜回り」は夜明けが必ずくることを知っています。見張りに必要なことはエルサレムを守られる主の守りに信頼すること、そして敵や危険に対して目を覚ましていることです。同じように祈る人に必要なことは、主に信頼すること、そして神から引き離そうとする悪の力に対して目覚めていることです。なぜ主を待ち望むのか。主に信頼し期待しているからです。「イスラエルよ 主を待て。/主には恵みがあり/豊かな贖いがある。/主は すべての不義から/イスラエルを贖い出される。」(7-8私たちはキリストの恵みによって救いを受けました。同時に救いは進行中でもあります。だから苦しみも悩みもあります。けれども決して失望することはありません。主は私たちの苦しみを知り、私たちの声に耳を傾けてくださるからです。そして終わりの日に主は必ず「贖い」を成し遂げ、救いを完成されます。教会は主を待ち望む神の民です。どんなときも主に望みをおいて、今日も私たちは「主よ 私の声を聞いてください」と祈りながら歩んでいくのです。