2021年5月2日礼拝

 幼子のように      詩篇131

プライドの問題 「主よ 私の心はおごらず/私の目は高ぶりません。/及びもつかない大きなことや奇しいことに/私は足を踏み入れません。」(1詩篇131で問題とされるのはおごり、高ぶりといった私たちのプライドです。私たちの罪はプライドと深く関わっています。「おごる心」は人より優れていることを誇る心、「高ぶる目」は人と比べ、競争心によって、自分が上にいることを確かめて誇ること。「大きなことや奇しいことに踏み入れる足」は自分を実際以上に立派で有能に見せようとする生き方のことです。けれども詩篇131の詩人はそのような生き方を拒みます。なぜでしょうか。詩篇131には、「ダビデによる」という表題がついています。王にとってプライドほど大きな問題はありません。自分の力を誇示したい、大きく見せたいという誘惑。けれども詩篇131でははっきりと、私はプライドを満足させるようなことはしないと語られています。それは「主よ」とあるように、人ではなく、神との交わりの中で主の前にいる自分自身の姿をみているからです。神抜きの謙遜は心からの謙遜になりません。けれども神の前で祈るとき、私たちは主の前にいる自分自身をみる。いっぽうで、高慢になるとき、プライドを満足させようとするとき、主の前に生きていることを忘れてしまっている自分がいる。そこには満ち足りた平安はありません。私たちは主の前で、自分は誰なのかを知ります。

 

主の前にいる私 ・主の前にいる自分自身とはどのような自分でしょうか。それは幼子のような自分自身です。まことに私は/私のたましいを和らげ 静めました。/乳離れした子が/母親とともにいるように/乳離れした子のように/私のたましいは私とともにあります。」(2クリスチャンは神に愛されている神の子どもです。世界を造られた偉大な神が私を愛してくださっていることが私たちの一番の誇りであるはずです。けれども主の前にいることを忘れるとき、満たされない思いになり、それを別のもので満たそうとします。人の前で自分を大きく見せようとし、人の関心を引こうとし、人の注目を集めようとします。一時的にプライドは満足させられるかもしれませんが、満ち足りた平安はありません。 ・主に信頼するとは母に信頼する幼子のように主を信頼するということです。この赤ちゃんは何にもわからない赤ちゃんではありません。お母さんがここにいること、私はお母さんの子どもであることを知っています。満ち足りた平安はこの幼子のような主への信頼からきます。主がともにおられること、私は神の子どもであること。頭で理解するだけではなく、心から神に信頼していること。そのことによって私たちは握りしめているプライドを手放し、ただ主だけを誇るものへと変えられていくことができるのです。心が神から離れ、主がともにおられることを忘れているとき、たましいはわたしの中にありません。けれども神とともにいるとき、わたしのたましいはあるべきところにあります。たましいの平安と静けさがそこにあります。だから神に信頼しようと民全体に呼びかけるのです。「イスラエルよ/今よりとこしえまで 主を待ち望め。」(3幼子にとってのお母さんのように、主は信頼できる方だからです。プライドを手放すことは卑屈になることではありません。幼子のような主への信頼によって、私たちは本当の謙遜を身にまとうことができるようになるのです。