2021年5月30日礼拝

神の民の喜び    詩篇133篇

神のものとされ、ともに神に仕える喜び 「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。/兄弟たちが一つになって ともに生きることは。/それは 頭に注がれた貴い油のようだ。」1-2詩篇133では、神の民の喜びはオリーブ油にたとえられます。特に高価なオリーブ油は特別なときにだけ用いられました。たとえば、祭司の任職と聖別のときです。「それは ひげに アロンのひげに流れて/衣の端にまで流れ滴る。」2アロンはイスラエルの祭司の代表、大祭司です。旧約の時代、神と人の間に立って、神と人の間をつなぐ役割を担ったのが、祭司です。祭司が就任するときに儀式として頭から注がれたのが、高価なオリーブ油でした。きよめの油が祭司の頭に注がれるとき、その香りはあたりいっぱいに広がりました。喜びの香りです。油注ぎは、祭司が神から特別に取り分けられ、神に仕えるための特別な力と知恵が与えられることをあらわすものでした。私たちのとっての大祭司は、私たちのためにご自分のいのちをささげてくださり、今も私たちのためにとりなしてくださるイエス・キリストです。そして聖書全体を通して語られていることは、教会は祭司の民だということです(Ⅰペテロ2:9)。大祭司イエス・キリストを通してのものとされ、ともに神とこの世界の間に立つ祭司として仕えるために、私たちは選ばれたのです。求められていることは、祭司の民として一致して神に仕えること。一致の土台はイエス・キリストです。キリストが祭司としてご自身をささげてくださり、私たち一人一人に聖霊を注いでくださいました。私たちの中には古い自分の生き方があります。古い生き方にしがみつくなら、一致することはできません。私たち一人一人は自分自身のものではなく、キリストのものです。キリストによって神のものとされていること。この土台に立って、違いのある一人一人がともに神の働きができるようになる。ここに神の民の喜びがあるのです。 

 

ともに成長し、実を結ぶ喜び 「それはまた ヘルモンから/シオンの山々に降りる露のようだ。」3ヘルモン山はイスラエルの地の一番北にある、一番高い山です。イスラエルの民にとって、雨は主の祝福でした。大地の実りは、主がこの地に雨を降らせてくださるかどうかにかかっているからです。雨の降らない夏の時期にも、北のヘルモン山には青青とした緑があります。朝露、夜露が降りるからです。そして山に蓄えられた水や、冬の間に降った雪の雪解け水が、ガリラヤ湖に流れ込み、そのガリラヤ湖からヨルダン川を伝って、都エルサレムに流れます。ヘルモン山からの露は大地に実りをもたらします。水は神からの祝福であり恵みなのです。神の民が一つになって生きること、そこにはヘルモン山から流れる水のような喜びがあります。聖霊の力によって、ともにキリストの似姿に変えられていくという実を結ぶことができるからです。主イエスが聖霊の力によって主がたのは、互いに成長していく一致と交わりです。「主がそこに/とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(3オリーブ油とヘルモン山の露に共通しているのは豊かに流れていくこと。主の祝福は神の民を通してあふれ流れていきます。私たちがともに神に仕えるのは、私たちを通してこの世界に主の祝福が注がれ、神のすばらしさがこの世界に満ちあふれるためなのです。