2021年6月6日礼拝

主を礼拝する民として生きる 詩篇134篇

主の招き 私たちが主を礼拝するのは、主が礼拝に招いてくださっているからです「さあ 主をほめたたえよ。/主のすべてのしもべたち/夜ごとに主の家で仕える者たちよ。」(1呼びかけているのはエルサレムで主を礼拝する人々、呼びかけられているのは「夜ごとに主の家で仕える」祭司とレビ人です。祭司とレビ部族は、主の前で幕屋や神殿で奉仕を捧げるために主が選んでくださった人たちです。年に三度のエルサレムでのお祭りには、多くの人が集まって主を礼拝します。祭りの間、祭司とレビ人は昼も夜の間も交代で幕屋や神殿で奉仕をしました。新約の教会においては、祭司とは私たち一人一人のことでもあります。私たちは聖霊によってキリストに結ばれ、キリストのものとされた祭司です。私たちは一人一人は主によって選ばれた祭司の民として主を礼拝するのです。なぜ主は私たちを礼拝に招いてくださるのか。私たちを愛しておられるからです。私たちには神に背き、自分の欲望と栄誉を神とする罪があります。礼拝に招かれるにはまったくふさわしくない、それが私たちの姿です。にもかかわらず、主が私たちを選んでくださり、私たちを礼拝に招いてくださる。礼拝は主の招きへの応答です。

 

主はほめたたえられるにふさわしい方 私たちが主を礼拝するのは、主はほめたたえられるにふさわしい方だからです。「聖所に向かってあなたがたの手を上げ/主をほめたたえよ。」(2私たちを礼拝に招いてくださっているのは聖なる場所、天におられる方です。私たちを礼拝に招いてくださっている方は、天におられる世界の創造者、支配者です。「手を上げ」ることは賛美と祈りの姿勢です。特に祭司は手を上げて祈り、主を賛美し、神の民を祝福しました。聖所に向かって手を上げるとは、思いを天に向けることです。身体の姿勢は心を神に向ける助けになります。私たちは礼拝において、賛美、祈り、奉仕を捧げます。そもそも、主を礼拝するということ自体が主への一番の奉仕です。なぜ賛美するのか。なぜ祈るのか。なぜ奉仕するのか。主はほめたたえられるにふさわしい方だからです。

 

 

主の祝福に応えて 私たちが主を礼拝するのは、主が私たちを祝福してくださるからです。「天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福されるように。」(3,2節の「ほめたたえよ」と3節祝福するは同じ言葉です。私たちの心が神に向かうとき、主をほめたたえる賛美が生まれます。神の心が私たちに向かうとき、私たちに注がれるのが神の祝福です。「シオン」とはエルサレムのことですが、私たちにとってのエルサレムは天のエルサレム、天です。礼拝において、毎日の生活において、主が私たちに与えてくださるのは天からの祝福です。<問 人のおもな目的は、何ですか。><答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。>(ウェストミンスター小教理問答1) 私たちにとってもっとも大切なことは、永遠に神を喜ぶこと、それが主を礼拝する生き方です。礼拝するとは生きる目的に戻ることです。私たちを選び、愛し、祝福してくださる方の招きに応え、主を喜び、主に従う。私たちはそのように造られました。だから主を礼拝する民として生きていくのです。