2021年7月25日礼拝

一つ   コリント人への手紙第一12章13節

イエスと一つ 洗礼はイエスと一つになることです。聖書が語っている一番大切なことは、この世界を造られた神が私たちを愛していてくださるということです。けれども、人間の一番の問題は、神から離れてしまったということです。悪い行い以前に、神から離れていることが罪です。けれども、罪によって神から離れていた私たちのために、神の側から私たちに近づいてくださいました。救い主イエス・キリストによってです。イエス・キリストは神のひとり子であり、罪のない方であるにもかかわらず、キリストは神から離れていた私たちの罪を赦すために十字架で死なれました。しかも、イエスの十字架の死は死では終わりませんでした。聖書の約束の通りに、イエスは死からよみがえられたからです。イエスは今も生きていて、<わたしを信じなさい>と今日も招いておられます。洗礼は、イエスを罪からの救い主として信じた人が感謝して受けるものです。洗礼には必ず水を使います。水があらわすのは神の霊である聖霊(御霊)です。イエスを罪からの救い主として信じるなら、まるで水が注がれるように、その人の中に御霊が注がれます。御霊が注がれるとき、キリストと一つになります。「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2:12洗礼を受けてクリスチャンになるということは、御霊によって、私のために十字架で死なれ、よみがえってくださったキリストと一つに結ばれることです。御霊によって神のひとり子イエスと一つに結ばれるとき、私たちも神の子どもになります。生きている間も、死んだ後も、神から離れず神の愛の中で生きることができるのです。これが救われるということです。

 

 

互いに一つ 「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、」 洗礼は私たちがキリストによって互いに一つとされることをもあらわします。この聖書の言葉が書かれた時代の社会ではユダヤ人とギリシア人はつき合いをしないことになっていました。文化も習慣も違うからです。いっぽう、教会にはいろんな身分や性別、人種の人がいました。教会の中には多くの奴隷もいました。この世界には人種、性別、身分の違いがあります。そのさまざまな違いが壁や差別や憎しみを生み出すことが多くあります。これもまた、私たちが神から離れている罪の結果です。けれども、神は差別をなさらない方です。 ・「一つのからだとなりました。」からだには多くの部分があります。けれども、ひとつのからだの各部分です。おなじように、私たちひとりひとりには違いがありますが、同じ<キリストのからだ>に結ばれた者として一つです。なぜなら私たちに与えられたのはおなじ一つの御霊だからです。「そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」水はからだのいのちです。水が私たちのからだを生かすのと同じように、私たちのたましいを生かすのは御霊です。水は飲んでもすぐ渇きます。けれどもイエスが私たちに注いでくださる御霊によるいのちは涸れることも渇くこともありません(ヨハネ7:37-39) ・洗礼が表すのは御霊によってキリストと一つになること、また私たちが互いに一つとされることです。ですから、私たちに求められているのはキリストの愛の中で、キリストの愛によって互いに愛し合う生き方なのです。