2021年8月15日礼拝
賛美と感謝の祈り 詩篇
103篇1~13節
主が私によくしてくださった 1ー5節は個人的な賛美と感謝です。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。/私のうちにあるすべてのものよ/聖なる御名をほめたたえよ。」(1)まるで自分以外の誰かに呼びかけるように、その人は自分自身に呼びかけます。賛美がわいてこないこと、感謝ができないことがあります。賛美と感謝を妨げるものとはなにか。それは「忘れる」ことです。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。/主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(2)忙しさの中で、思い煩いの中で、私たちは主がしてくださったことを忘れてしまうのです。必要なことは思い起こすことです。「主は あなたのすべての咎を赦し/あなたのすべての病を癒やし/あなたのいのちを穴から贖われる。/主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ/あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。/あなたの若さは 鷲のように新しくなる。」(3-5)主がよくしてくださったこととは罪の赦し、病のいやし、悪の力や危険からの守り、いのちを支えてくださること、私の願いを知っておられ、日々の必要を満たし、力を与えてくださること。神の愛が見えなくなることがあるかもしれません。けれども静まり思い起こすときに、すべて神がしてくださったことであると気づきます。主がしてくだったことを思い起こすことから賛美と感謝は生まれるのです。
主が神の民をあわれんでくださった 6節以降は共同体の賛美と感謝です。「主は 義とさばきを/すべての虐げられている人々のために行われる。/主は ご自分の道をモーセに/そのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。」(6-7)ここではモーセの時代からの神の民の歴史を思い起こしています。神の民は神の歴史の中で生かされているからです。出エジプトの出来事はいつもイスラエルの民が立ち戻る原点でした。出エジプトの出来事は私たちにとっても思い起こす必要がある出来事です。イエスの十字架と復活を指し示すからです。私たちは礼拝においていつも主イエス・キリストの十字架と復活という原点に立ち戻ります。「主は あわれみ深く 情け深い。/怒るのに遅く 恵み豊かである。」(8)神の民の賛美と感謝は主のあわれみと恵みに対してささげられます。神が神の民をあわれんでくださること。この場合それは罪の赦しを意味します。神は個人的な罪にも国や民族や共同体の罪に対しても怒りを燃やされる方です。にもかかわらずあわれみと赦しを与え、もう一度ともに歩んでくださるのです。私たちがあわれみをうけるにふさわしいからではなく、主のあわれみと恵みがそれほどまでに深いからです。「父がその子をあわれむように/主は ご自分を恐れる者をあわれまれる」(13)私たちに必要なことは神に立ち返ることです。主は私たちを「子」として赦し、関係を回復してくださるからです。私たちが集まって礼拝することとは、神の民に対して注がれた主の恵みとあわれみを思い起こすことです。主の恵みとあわれみを思い起こし、賛美と感謝をささげる民として、私たちはこれからもともに歩んでいくのです。