2021年8月1日礼拝

主を待ち望む祈り  イザヤ書40章27~31節

永遠の神・創造主に心を向ける ・預言イザヤは約2700年前、イスラエル南王国ユダで活動した預言者でした。南王国ユダの人々は神に背き、偶像の神々により頼むようになりました。神のさばきによって都エルサレムはこの後バビロンに滅ぼされ、人々はバビロンに捕囚として連れて行かれるのです。人々の中にあったのは国と故郷を失うことへの恐れや不安であり、失望とあきらめです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている』と。」27)ここにあるのは<神は私たちのことを心配してくださらないのではないか>という叫びです。苦しいとき、このように感じられることがあります。神は私たちの心の思いをご存じです。「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。」28)神に祈る時大事なのは、どのような神に向かって祈っているのかということです。心配事や不安で押しつぶされそうになり、祈ることなどできないとき、永遠の神・創造主に思いを向けること。それが祈りの第一歩です。

 

私の疲れも弱さも主は知っておられる ・「疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。」28-29) 私たち人間には疲れること、弱ってしまうことがあります。クリスチャンになれば疲れないとか、弱らないとか、そういうことはありません。疲れること、弱ってしまうことはあるのです。聖書は神が疲れを知らない方、弱ることのない方であると語ります。けれども神は弱さや疲れを理解できない方ではなく、私たちの弱さも疲れも知っていてくださる方です。だからこそ、神は疲れている私、弱っている私に手をさしのべてくださるのです。この方に向かって、私たちは祈りの手を挙げることができます。

 

 

主に期待することが祈りの力 ・「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」30-31)「待ち望む」はただ待つという受け身の姿勢ではなく、期待して求めることを意味します。必ずくるとわかっているから期待する。それが待ち望むことです。イザヤの時代、南王国ユダの人々の希望は、主が彼らを救われることによって、彼らがもう一度エルサレムに戻ってくることでした。イザヤが語った希望は救い主キリストにつながる希望です。新約の時代を生きる私たちはイエスによってすでに救われています。同時に救いは進行中でもあります。終わりの時に救いは完成します。 ・「鷲」は速さと力強さの象徴です。どんなときでも、主に期待する人は新たな力をいただくことができます。鷲は自分の力というよりも、翼を広げて風の力を受けて素早く力強く空へと舞い上がるように見えます。私たちの祈りもこのような鷲の姿とどこか似ています。鷲が翼を広げるように、聖霊の助けによって、言葉にならなくても、永遠の神、創造主に祈りの手を広げること。主に期待すること、その時すでに私たちは祈り始めているのです。