2021年8月8日礼拝

神に告白する祈り   ヨハネの手紙第一1章5~10節

神は光 ・「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。」5)「神は光であ」るとは、神の完全な知識と完全なきよさを表します。祈りは何でも知っておられ、きよい方である神との交わりであり、神に対する告白です。光である神が心を照らされるなら、そこに見えるのは私たちの本当の姿です。 ・当時の教会にはある間違った教えが広まっていました。それは、神との交わりは霊的な事柄だから肉体とは関係がないという考え方です-肉体はいずれ滅びるのだから。心が神を信じていればそれでいいのだ-これに対してヨハネははっきりといいます。「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」6)神は光です。私のすべては神によって知られています。にもかかわらず、罪がないという人は自分自身の本当の姿をみようとしていないからです。罪とは何でしょうか。アダムとエバ以来の人間の罪の根源は、神に背を向け、神ではないものを神とすることです。神に背を向けるなら、自分自身を神とするかこの世界を神とするかのどちらかです。同時に、私たち一人一人は、個人的に、罪の誘惑を受けやすい部分をそれぞれ持っています。人への妬みや憎しみ、性的な罪、富への執着、嘘偽り、ひとりひとり、罪の誘惑を受けやすい部分があります。もしこのような罪が神の前に隠されたままであるなら、その罪は神との関係を傷つけます。祈っていても、礼拝していても、隠れた罪は神との関係に影響し、教会の交わりにも影響します。

 

光の中を歩む ・ヨハネは人には二種類の生き方があることを示します。それは闇の中を歩く生き方と光の中を歩く生き方です。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(7)神との交わりとは光の中を歩むことです。私たちが神のきよさに背を向けるなら、まるで真っ暗な夜のように、よいものもよくないものも区別が付かなくなってしまうのです。けれども、私たちには、イエスの十字架があります。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに一度限り完全なささげものとして十字架で血を流し、いのちをささげてくださいました。私たちの罪を赦し、罪からきよめるためです。罪の赦しは神との関係の回復です。神は真実な方だから、愛する御子イエスの十字架を通して、私たちとの交わりをもう一度回復してくださるのです。私たちに必要なことは、祈りによって神に罪を告白することです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」9)聖霊は私たちの内側で良心を通して罪に気づかせてくださいます。私たちに必要なことは、罪に気づかされたら神の前に告白することです。光の中を歩むとは、罪がないふりをすることではありません。神は光であり、私たちの心を探ってくださる方です。祈りは告白です。神の前で正直であることが、光の中を歩む生き方なのです。