2021年9月26日礼拝

さばきと救い   へブル人への手紙9章27~28節

死とさばき キリストがもう一度来られる終わりの時について、使徒信条は「かしこより来たりて 生けるものと死ねるものとをさばきたまわん」と告白します。死はすべての人に訪れます。誰でも知っていることであり、受け入れるのが難しいことです。同時に、死は終わりではありません。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」27)すべての人が神によってさばきを受ける時がくるからです。キリストがもう一度この地上に来られるときです。そのとき生きている人だけでなく、すでに死んだ人も復活してさばきを受けます。さばきを語ることは好まれません。さばきはないと考える人もいます。けれども、キリストがもう一度来られるとき、すべての人はさばきを受けると聖書ははっきり語ります。私たちも死んだ後、必ず神の前に立つことになります。神は私の心の中の思いも、私が自分で気づかないことも、すべてを知っておられます。さばきのとき、主イエスは私の罪をひとつひとつ責め立てられるのでしょうか。もちろん、私には罪があります。神はそのことをよくご存じです。にもかかわらず、神はキリストのゆえに、私を義と認めてくださる(ローマ8:33-34)、つまり罪が赦され、神の前に無罪であると宣言してくださるのです。なぜでしょうか。イエスが私のために死んでくださった、そして死からよみがえってくださったからです。最後のさばきのとき、私たちは神の前に立ちます。けれどもそのさばきは私たちを罰するためのさばきではありません。キリストの十字架と復活の恵みによって私の罪は赦されたからです。そして私は死からいのちにうつされたからです。これが救いです。救いは私たちが努力して勝ち取るものではなく、神からの贈り物です。私たちに必要なことは、神に立ち返り、そしてイエスの十字架と復活の恵みを感謝して受け取ることです。

 

 

キリストを待ち望む生き方 イエスはもう一度来られます。私たちに求められている生き方は、イエスを待ち望む生き方です。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」28)イエスは私のすべての罪を負うために、十字架で「一度」限りご自身のいのちをささげてくださいました。旧約時代のいけにえのように、何度もささげられることはないということです。イエスの十字架は一度限りの完全な、救いへの唯一の道です。キリストがもう一度来られるとき、終わりがきます。そしてキリストはこの世界と私たち一人一人を、神が望まれる本来の姿につくりかえてくださいます。ですから、イエスを待ち望む人にとっては、さばきの時は罰を恐れる時ではなく、救いが完成する時です。さばきにおいては、むしろ私たちの生き方が問われます。イエスが語られたタラントのたとえが示すように(マタイ25:17-30)、与えられた賜物をどのように用いたか、神の恵みに応えてどのように生きたかが問われます。イエスを待ち望む生き方は、イエスとともに、神の恵みに応えて与えられた賜物を用いて神を愛し、人を愛する生き方です。私たちは今日も、主がもう一度来られるとき、救いの完成の時に向かって歩んでいます。主イエスを待ち望んで歩む者には、さばきの時は救いの時なのです。