2022年1月16日礼拝

主に仕える歩みのために  ヨシュア記24章14~24節

ヨシュアが生涯の最後にイスラエルの民に語ったのは主に仕える生き方です。クリスチャンとして生きるとは、主に仕えて生きることです。それはなぜでしょうか。

 

主が仕える者になられたから イスラエルの先祖アブラハムの家族はもともと主ではないほかの神々に仕えていました。さらにエジプトでの400年の奴隷生活はほかの神々に仕える生活でした。神がしてくださったことは、イスラエルの民をほかの神々に仕える生活から救い出して、主に仕える自由な生き方に招くことでした。すべて主がしてくださったことでした。主がイスラエルの民を救うために仕える者になってくださったのです。救い主イエス・キリストは神のひとり子、神ご自身でありながら、私たちに仕える者になってくださいました。罪の奴隷であった私たちが、主に喜んで仕えていく者へと変えられていくためです。

 

主に仕えることを選び取る 「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。」13)ヨシュアがイスラエルの民に問いかけているのは神々と主とどちらに仕えるのかということです。中間はありません。両方に仕えることはできないからです。この点でヨシュアには迷いはありません。「ただし、私と私の家は主に仕える。」(15では自分はどうするのか。一人一人が問われます。主を恐れ、主に仕えることは人間本来の生き方です。救われるとは、本来の生き方に戻ることです。私たちに必要なのは主に仕えて生きる本来の生き方を選び取ることです。求められているのは、日々主に仕える道を選び取ることです。だから日々、「今日」福音を聞く必要があります。イエスが私に何をしてくださったのか、何をしていてくださるのか。私を救うためにイエスは仕えるものとなってくださった。私はキリストの愛の中にいる。だから主に仕える道を今日も選び取っていくのです。

 

 

神々を除き去る ヨシュアは民に決断を迫ります。イスラエルの民は「私たちもまた、主に仕えます」18)と答えます。ところが、ヨシュアが人々に語った言葉は大変厳しいものでした。「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。」(19現にこのあと、イスラエルの民は主だけに仕え続けることができませんでした。主が「ねたみの神」であるとは、主はご自身の民を特別な愛で愛してくださる方です。ほかの神々に仕えることは神との愛の絆を断ちきることです。主に仕えることは「神々を除き去る」ことです。一番大切なことを知ったのだから、今まで自分の神々としてきたものを除き去るのです。一番大切なことは、神は私を愛してくださっているということです。だから日々福音を聞き、神の愛を受け取りましょう。そして毎日、みことばと祈りによって主の導きと助けを求めながら、私を愛してくださっている方だけに喜んで従っていくこと。これが私たちにとっての主に仕える歩みなのです。