2022年1月2日礼拝

キリストに結ばれて歩もう  ヨハネの福音書15章16節

 イエスが私を選ばれた ・「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」私たちがイエス・キリストを信じ、救われて神の子とされたのはなぜでしょうか。それは私がした何かによるのではなくてイエスが私を選んでくださったからです。主イエス・キリストが救い主としての働きを始める最初にしたことは弟子を招くことでした。けれども、聖書にはなぜ彼らが選ばれたのかは語られていません。わからないのです。弟子たち自身にもわからなかったでしょう。彼らがイエスに従っていく弟子となったのは、私はイエスの弟子となりますと名乗り出たからではなく、イエスが声をかけ選んでくださったからです。私たちもそうです。よい行いを積み重ねたからでも、何か難しい真理を発見したからでも、長い修行によって悟りを開いたからでもなく、イエスが私を友として選んでくださって、私についてきなさいと招いてくださったから、今ここにいるのです。弟子たちはイエスによって呼ばれる前はこの世に属し、この世の流れに支配される罪の奴隷でした。彼らはイエスによって世から選び出されました。罪の支配から救われ、神のものとされたということです。神は私たち一人一人を選んでくださった。世界のはじめから、神はもうすでに私を選んでいてくださった。なぜ私を選んでくださったのか。神が私を愛してくださっているからです。イエスは私を愛する愛のゆえに、私を選び、私を救うためにいのちをささげてくださっのです。

 

目的があるから ・イエスは私を愛し選び任命してくださったのは目的があるからです。「それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」イエスは「ぶどうの木」であり、弟子たちは「枝」です(155)。イエスが弟子として選んでくださったということは、イエスというぶどうの木に結ばれたということです。旧約聖書ではぶどうの木とはイスラエルをあらわすたとえでした。ぶどうは祝福と喜びの象徴です。イスラエルの民は神の祝福を受け継ぐために選ばれましたが、彼らは神に背きました。それでも神の約束は変わりませんでした。キリストの弟子は「行って」キリストを伝えます。「実を結ぶ」とは私たち自身がキリストに似たものへと造り変えられていく霊的成長とともに、私たちを通して救われる方々が起こされることです。一番大切なことはイエスにつながっていること。そこには消えることのない喜びがあります。慰めがあります。力があります。イエスにつながりイエスにとどまるとは、聖霊の助けによって神のことばに聞き従うことです。年の初め、新たな思いで、私たちが選ばれ愛されている目的を確認しましょう。キリストに結ばれて、神の子どもとして成長すること、キリストを伝え、キリストの弟子が生み出されること。そのために今私たちはここに集まり、ここから遣わされていくのです。