2022年1月9日礼拝

どこから来て、どこにいるのか  ヨシュア記24章1~13節

どこから来たのか 主はヨシュアを通して、イスラエルの民がどこからきたのかを思い起こさせます。始まりは「父祖アブラハム」(1)の選びでした。アブラハムは主を信じる家で育ったわけではなく、アブラハムの父も祖父もほかの神々に仕えていました。私たちもまたはじめから神の民であったのではありません。それぞれに先祖の歴史があり、家族の物語があります。アブラハムのようにほかの神々に仕えていた家族の中から、神がひとりひとりを選び出してくださった。私たちひとりひとりにもアブラハムのようにイスラエルの民のように神の選びがあったのです。それは世界の救い主であるイエス・キリストによる選びです。国籍も民族も時代も越えて、神が私たちをイエス・キリストによって選んでくださって、イエスは主であると信じる信仰を通して神のものとしてくださったのです。

 

どのように救われたのか アブラハムの子孫はエジプトに移り、やがてイスラエルの民は奴隷生活を強いられるようになりました。それは休みのない労働だけではなくエジプトの神々に仕える生活です。主はイスラエルの叫びを聞いてくださいました。そして主は力強い手で彼らを「エジプトから導き出し」(6)、救い出してくださったのです。いくつもの災いが主によってエジプトの上に下されます。すべて主の力によることでした。そして荒野の旅が始まります。荒野の試練の中でイスラエルの民には多くの過ちがありました。けれども主は民をあわれみ、民を「救いだし」(8)てくださいました。出エジプトの物語は私たちの物語でもあります。イスラエルの民がエジプトで奴隷であったのと同じように、私たちも罪の奴隷だったからです。私たちは以前は罪の中にいました。イエス・キリストはご自身のいのちによって、罪の奴隷であった私を解放してくださいました。私は主の力によって、主の愛によって救われたのです。

 

 

今どこにいるのか 約束の地で民が直面したのは戦いでした。カナンの地での戦いは偶像礼拝や不道徳との戦いでした。イスラエルが戦いに勝利することができたのは「わたしは彼らをあなたがたの手に渡し」(8)とあるように主の力によってでした。私たちにも戦いがあります。それは古い自分の罪の性質との戦いであり、キリストを伝えることにも戦いがあります。私たちの力では戦えません。けれどもキリストは十字架と復活によって悪魔の力に勝利し、今も私たちとともに戦ってくださいます。イスラエルの民が「そこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。」祝福の中にいるように、救い主イエス・キリストに結ばれて、主の祝福を受けています。私たちはこれからどこに向かおうとしているのか。必要なことはすべてを知ることはありません。時代は変わり、人々の考え方も価値観も変わっていきます。けれども主は変わらず私たちの神です。信頼して従うなら主は祝福を約束してくださっている。イスラエルの幕屋の中に主が住んでくださったように、イエス・キリストは聖霊において私たちの中に住んでおられ、従う思いと力を与えてくださいます。だからこれまでそうであったように、私たちはこれからも主に信頼して主に従っていくのです。