2022年4月10日礼拝

私を救うために       ルカの福音書 23章32~43節

自分を救わない ・今日から受難週の一週間が始まります。人間の罪によってイエスは十字架につけられました。同時に、イエスは自ら十字架への道を歩まれました。それは天の父のみこころに従って、私たち人間の罪を赦すためでした。ついにイエスは二人の犯罪人とともに十字架につけられることになります。ルカの福音書が描くのはイエスを見上げてあざける人たちの姿です。まるで示し合わせたかのようにエルサレムの指導者も、ローマの兵士も、十字架につけられた犯罪者の一人さえも同じ言葉でイエスをあざけります。「自分を救え」。では、イエスが自分を救うとはどういうことでしょうか。イエスが十字架から降りて、十字架で死ぬことをやめるということです。これこそがイエスが戦い続けてこられた悪魔の誘惑でした。イエスが自分を救うとはイエスが十字架で死なないということです。そしてもしイエスが十字架で死なれなければ、私たちが救われる道はありませんでした。イエスが自分を救うことをなさらなかったからこそ私たちは救われたのです。

 

自分が何をしているのか ・イエスは十字架の上で天の父に苦しみながら祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34「彼ら」とはイエスを十字架につけ殺そうとする人々です。それは彼らが「自分が何をしているか」がわからないからです。最初の人間アダムとエバ以来、人は神に背を向け、神から離れ、自分自身を神とするようになりました。自分が何をしているかわからないのは、神から離れ、自分がどこにいるのかわからなくなったからです。まるで何かに操られているかのように彼らは旧約聖書のことばが語るの通りにイエスをあざけり、着物をくじでわけます(詩篇22818)自分が何をしているかがわからない罪の奴隷だからです。それは私自身の姿でもあります。神から離れ、自分を神としようとし、自分が何をしているのかわからないのは私の姿です。私を赦すために、十字架の上でイエスは私のためにも祈られたのです。

 

今日、イエスとともに イエスとともに十字架につけられた二人のうち、一人は最後までイエスをあざけりますが、一人はイエスを信じました。「そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』」イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」(42-43死んだ後ではなく、「今日」、今ここに救いがきたのです。死の間際に一人の罪人が救われました。行いによってはとうてい救われ得ない一人の人が、イエスを信じる信仰によって、罪の赦しの恵みを受けた。これは私の身にも起こったことです。罪の奴隷であった一人の人がイエスを信じて救われたイエスの十字架は私を赦し私を救うための十字架どこにいるかわからない、何をしているのかわからない人生はイエスとともに十字架につけられました。イエスの十字架の愛と赦しによってイエスとともに生きる道が開かれたのです。今日、イエスとともに生きる。そのために私は救われたのです。