2022年4月24日礼拝

本来の生き方への旅     エズラ記 2章1~58節(朗読1236-4258節)

自分が誰かを知る 「バビロンの王ネブカドネツァルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、  その捕囚の身から解かれてエルサレムとユダに上り、それぞれ自分の 町に帰ったこの州の人々は次のとおりである。」1)2章で語られるのは今から約2500年前、捕囚から解放されバビロンからエルサレムに帰った人たちの名簿です。2節あるのは指導者たちの名前、3節以降は家族および出身地で分類されています。ここにある種族や出身地の名前こそ、自分たちは神の民であり、神がバビロンの地でも自分たちのことを覚えてくださっていたということのしるしでした。バビロン捕囚の原因はイスラエルの民が神に背を向け富や反映など自分たちの欲望を神とするようになった罪の結果でした。人は神から離れるとき、自分が誰かがわからなくなります。イスラエルの民がバビロン捕囚の苦しみによって経緯したことは、神を知り神に立ち返ることによって、自分が誰かがわかるようになったということです。イエス・キリストが私のためにしてくださったことは、神から離れ、自分を神としようとする私、そして自分が誰かわからなくなっていた私を赦し、私のためにいのちを与えるということでした。私はイエス・キリストの愛によって神を知り、イエス・キリストの十字架と復活の恵みによって神に立ち返ることができました。イエス・キリストに結ばれることによって神の子ども・神の民とされました。そのことによって、自分は誰かがわかるようになったのです。

 

本来いるべきところに戻る バビロン捕囚の苦しみとは故郷を失うことだけではなく、主を礼拝ができなくなることでした。もちろん、捕囚の時代にも預言者を通して神のことばは語られ続けました。けれども、エルサレムの神殿は滅ぼされました。神殿で神を礼拝できない苦しみを彼らはエルサレムを離れてはじめて味わったのです。「祭司」(36)、「レビ人」(40)、「歌うたい」(41)、「門衛」(42)、「宮のしもべ」(58)、「ソロモンのしもべ」(58)はまたもともとは神殿の奉仕者あるいはその子どもたちです。彼らの多くはバビロンでは別のことをして働いていたと思われます。これから彼らはエルサレムで神殿を建て直します。それは彼らが本来の働きに戻ることができるということです。神殿の奉仕者のうち実際にエルサレムに帰ったのはごく一部でした。バビロンにとどまれば、そこには安定した生活があります。だから多くの人たちはエルサレムには戻りませんでした。エズラ記2章に記されているのは、バビロンの安定した暮らしを捨ててエルサレムで神殿を建て直すという、人間的に見れば不安定な未来に向かって旅立って行った人たちです。神との関係抜きの安定した暮らしには永遠に続く喜びはありません。けれども、神を礼拝し、神との交わりに生きる生き方には永遠に消えない喜びがあります。もちろん、神を礼拝する民とされたことは神の特別な選びです。けれども神を礼拝することは何か特別なことではなく、人間本来のあり方です。人は神を礼拝するように作られたからです。私たちはイエス・キリストが死からよみがえられた日曜日に朝に主を礼拝します。そして礼拝から始まる毎日の生活を「何をするにも、すべて神の栄光を現すために」(Ⅰコリント10:31)することが、私たちの生きる意味であり、本来の生き方なのです。