2022年5月15日礼拝

揺るがない礎       エズラ記 3章7~13節

神の変わらないいつくしみ 今から約2500年前、バビロン捕囚期のイスラエルの民の歩みは、いわば土台が失われた神の民の歩みでした。彼らは主のあわれみによって、約50年ぶりにエルサレムに帰ることができました。帰還した民の使命は、エルサレムでバビロンによって壊された神殿をもう一度建て直すことです。神殿再建が始まったのは「二年目の第二の月」(8)、これはソロモンが最初に神殿を建てたときと同じ季節です(16:1)。さらに、ツロからレバノンの杉を求めたこともソロモンの時と同じです。はじめに神殿の基礎が据えられました。イスラエルの民はみんなで主を賛美します。「そして彼らは主を賛美し、感謝しながら『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。」(11)「恵み」とは神の変わらない愛、たしかな契約に基づいた愛です。イスラエルの民は何度も主に背き、主との契約を破りました。にもかかわらず、主のいつくしみと恵みは変わることはありませんでした。神殿の礎が据えられたことを通して、彼らは変わらない主のいつくしみを味わったのです。今私たちが立つべき土台はどこでしょうか。それは2500年前も今も同じです。私たちが立つべき土台は神の変わらないいつくしみと恵みです。私たちはイエス・キリストによって神の愛を知りました。イエスの十字架と復活は、神の愛は変わることがないことを明らかに示します。私たちを揺り動かす罪の力と、その結果である死の力にキリストは勝利してくださいました。

 

今生きておられる神 イスラエルの人々は主のいつくしみと恵みに感謝して、大声で喜びの歌を歌い、主を賛美しました。叫びは遠くまで響くものでした。ところが、その叫びは喜びの声だけではありませんでした。「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(12)年配の人たちはソロモンの時代の神殿を見ています。過去の栄光を知っています。ソロモンの時代のあまりに壮麗な神殿に比べれば、これから建てられる神殿の礎ははるかに小さなものに思えたでしょう。けれども、主のいつくしみを思い起こすことは、過去にしがみつくこととは違います。彼らは過去の栄光が失われたことを嘆きました。けれども過去の栄光は、それがどんなにすばらしいものであったとしても、神の民の揺るがない土台とはなりません。神殿の礎が据えられたことは主が今生きておられることの証しです。イスラエルの民に必要だったことは、今生きておられる神に信頼し、今与えられている恵みに感謝することでした。私たちの土台は今生きておられる神、イエス・キリストです。私たちの使命は、キリストを土台として、私たち自身が「霊の家」へと築き上げられていくことです(Ⅰペテロ2:5)。なぜ主を賛美するのか。主は今生きておられるから、主の恵みは今も変わることがないからです。主イエス・キリストを揺るがない礎として、主の変わらないいつくしみに感謝しながら、今生きておられる主に信頼して歩んでいきましょう。