2022年6月12日礼拝

試みに打ち勝つ力       エズラ記 4章1~5節

・4章は妨害による神殿再建の中断です。神に従おうとするところには敵の攻撃があります。

信仰をあいまいにしようとする攻撃  「ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々がイスラエルの神、主のために宮を建てていると聞いて、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て言った。『私たちも、あなたがたと一緒に建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めたいのです。私たちをここに連れて来たアッシリアの王エサル・ハドンの時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえを献げてきました。』」(12)一見協力的なように見えますが、彼らは実はサマリア人です。イスラエルが南北に分裂したのちの北王国の都がサマリアです。BC722年、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、サマリアにアッシリアの民族が移されます。彼らは自分たちの神々をイスラエルの地に持ち込みました(Ⅱ列王17:2441)。サマリア人とイスラエルの民は同じ信仰に立っていません。「しかし、ゼルバベルとヨシュアと、そのほかのイスラエルの一族のかしらたちは彼らに言った。『私たちの神のために宮を建てることは、あなたがたにではなく、私たちに属する事柄です。ペルシアの王キュロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりです。』」(3)指導者たちはサマリヤ人の申し出をきっぱりと断りました。神の民が神に従おうとするとき、最初の攻撃は私たちの信仰をあいまいする誘惑であることがあります。このような誘惑に対し妥協してしまっていることはないでしょうか。

 

恐れと失望を与えようとする攻撃 イスラエルの指導者たちがサマリア人の最初の攻撃を退けたとき、サマリア人たちは実力行使に出ました。「すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。」(4)神を信じて従っているのになぜ、ということが起こることがあります。がっかりさせられること、失望させられることは起こります。そこにあきらめてしまう誘惑、神に期待しなくなってしまう誘惑があります。どういうときに恐れや失望を感じるでしょうか。それは神のことばを語るとき、イエス・キリストの福音を伝えるときではないでしょうか。伝えることへの恐れ、伝えても受け入れられなかったことへの失望。だから伝えることをやめてしまう。この恐れと失望という攻撃はとても強いものです。神の民は神に従うゆえの恐れや失望という試練を味わうことがあります。

 

 

試みに打ち勝つ力はどこから 試みに打ち勝つ力はイエス・キリストからきます。まずイエスご自身が悪魔の攻撃を受けられました(ヘブル4:15)イエスはなぜ試みに打ち勝つことができたのか。イエスは神の子でありながら、私たちと同じ一人の人として、天の父に信頼して、天の父から力をいただくことによって悪魔の攻撃に勝利されたのです。さらに、イエスは悪魔の攻撃に勝利されただけではなく、十字架と復活によって私たちを恐れと失望に追いやる悪の力そのものに勝利されました。試みに打ち勝つ力はキリストを通して、聖霊の助けによって与えられます。キリストがともにおられるなら、決して打ち負かされてしまうことはありません。キリストにとどまることによってのみ、私たちは悪の試みに打ち勝つことができるのです。