2022年6月19日礼拝

試みの意味       エズラ記 4章6~24節

神に従おうとするとき、神の民は試みにあいます。それは旧約の時代のイスラエルの民も今の時代を生きる私たち教会の民も同じです。では、試みの意味とは何でしょうか。

 

①信仰が試される時  サマリア人の妨害によって神殿建設は中断しました。中断はこのあと約15年続くことになります。サマリア人の妨害はその後も続きます。彼らはペルシアの王に城壁を含むエルサレム再建の働きを殿建設をやめさせるための告訴状まで出しました。「王にお知らせいたします。あなた様のところから、私どものところに上って来たユダヤ人たちはエルサレムに着き、あの反抗的で悪しき町を再建しております。」12)ペルシアの王の権威により頼んで、エルサレム再建の働きを完全に止めようとしたということです。信仰が試されるときは、本当は誰により頼んでいるのかが問われているときです。イスラエルの民はこれまで心のどこかでペルシアの王の権威に信頼しているところがあったかもしれません(4:3)。神殿を再建するとき、イスラエルの民に必要だったことはペルシアの王により頼むことではなく、主により頼むことです。信仰が試される時は誰に信頼しているのかが問われる時です。私たちが状況やこの世の力に信頼している時、祈らなくなります。そして神に信頼することを忘れます。神の民は試みを通して、主に祈り、主にのみ信頼する道を選び取っていくのです。

 

② 動機が問われる時 イスラエルの民はなぜ神殿を建て直すのでしょうか。彼らの心にはもう一度ソロモン王の時代のような神殿を建てたいという願いがあったことでしょう。「またエルサレムにはかつて勢力のある王たちがいて、ユーフラテス川西方の地を全部支配し、貢ぎ物、関税、税金が彼らに納められていたことも分かった。今あなたがたは命令を下して、その者たちの工事をやめさせ、私から再び命令が下るまで、この町が再建されないようにせよ。」20-21)もちろん、ソロモン時代の神殿はすばらしいものでした。けれどもイスラエルの民の使命はソロモンの時代のような神殿を建てることではありません。なぜなら、神殿を建てたあと、彼らは堕落していったからです。イスラエルの民がここで問われていたことは、動機はどこにあるのかということです。イスラエルの民が神殿を建て直すのは自分たちの力や業績を誇るためでもありません。建て直されようとしているのはむしろ神の民の心です。

 

・イスラエルの民にとって神殿再建は主のみこころでした。にもかかわらず、順調には進みませんでした。試みがあり、中断がありました。私たちにも思うようにことが進まないことがあります。試みの時は動機が問われている時です。立ち止まって、なぜその選択をするのかを吟味する時です。自分の欲のためではないのか。自分の栄誉のためにしようとしているのかどうか。主は行いより先に私たちの心を見られるからです。だから祈ります。祈る中で信仰が練られ、動機が問われます。祈りは神との交わりであり、神は神の民の祈りを通して働かれます。悪の力は試みによって神の民を打ち負かそうとします。けれども、神の民は試みを通して、今まで以上にただ主だけにより頼むように変えられていくのです。