2022年7月10日礼拝

主を証しする民    エズラ記5章6~17節

誰を恐れているのか ・中断していた神殿工事が再開しました。すると試練が訪れます。総督の調査が入ったのです。けれども、主はイスラエルの民を守られ、工事は再び中断することはありませんでした(1-5)。総督はペルシア王ダレイオスに文書で報告します。6節以降は報告文書の内容です。「『この宮を建て、この城壁を修復せよとの命令をだれがあなたがたに下したのか。』」(9)と問われたイスラエルの民はここで問われたこと以上のことを答えます。彼らは総督の前でいわば信仰の告白をしたのです。主を証しする民に問われているのは誰を恐れているのかということです。イスラエルの民は「私たちこそは天と地の神のしもべであり、ずっと昔から建っていた宮を建て直しているのです」(11)と言い表しました。これはイスラエルの民の信仰告白です。妨害するサマリア人への恐れがあります。ペルシア帝国の力に頼りたい思いがあります。けれども、神の民であるイスラエルの民が恐れるのは天と地の神である主のみです。 ・信仰を言い表すことは自分が誰かを言い表すことです。クリスチャンではない人に対して、自分がクリスチャンである言い表すことは勇気のいることです。自分が誰かがわかってしまうからです。<自分は誰か>とは<自分は誰を恐れているのか>ということでもあります。多くの人が人の目や評判を恐れます。そして本当の意味で自分が誰かがわからなくなっていきます。私が誰かを知っておられるのは、天と地を造られ、治めておられる神です。必要なことは神だけを恐れることです。

 

 

主はあわれみ深い方 ・神だけを恐れるとは、神に対していつもびくびくしていることではありません。主はあわれみ深い神だからです。イスラエルの民はここでなぜ神殿が破壊されてしまったのかを語ります。「しかし、私たちの先祖が天の神を怒らせたので、神は彼らを、カルデア人であるバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されました。彼はこの宮を破壊し、民を捕らえてバビロンに移したのです。」(12)信仰告白は罪の告白でもあります。神殿が破壊されたこと、そしてバビロン捕囚はイスラエルの民が神を恐れず、神を軽んじ、他の神々や国々により頼むようになっていったことへの神のさばきでした。彼らは自分たちの先祖が間違った道を歩んだことを隠さずに語りました。それは主のあわれみを知っているからです。主のあわれんでくださったから、彼らはもう一度エルサレムに帰ることができた、そして困難の中でも守られてきたのです(13-16)。  ・主を恐れることはあわれみ深い主に信頼することです。私たちはイエス・キリストによって主のあわれみを知りました。神を怒らせる背きの罪は私たちの中にもあります。主を証しするどころか、主から離れ、すぐに自分の古い生き方に戻ろうとします。そんな私のために、イエス・キリストは、私が受けるべき神の怒りを十字架の上で背負われました。主のあわれみによって私は救われ、生かされています。私たちは主だけを恐れ、主だけに従います。主はあわれみ深い方だからです。主を証しすることは、自分を立派に見せることでありません。私たちに対する主のあわれみを証しすることです。