2022年8月14日礼拝

御名が聖なるものとされますように  マタイの福音書6章9~13

神を知っていながら ・主の祈りは賛美からはじまります。「御名が聖なるものとされますように」御名とは私たちに示される神ご自身のことです。神は聖なる方です。神は正しい方、罪のない方、すべてのものにまさる方です。つまり<御名が聖なるものとされる>とは、神が神として賛美されることです。この世界のすべてのものは、神のすばらしさをあらわすために造られました。けれども、そうはなっていない現実があります。本当は神を知らない人などいないのです(ローマ1:2021)。問題は、神を正しく知ることができなくなっているということです。神を正しく知ることができなくなっているから、神を知っていながら、神を賛美するのではなく、神を無視しようとします。神を馬鹿にしたりします。神ではない何かを神にしようとしたりします。だから争いがあります。環境破壊があります。貧困があります。神を賛美するために造られたこの世界がうめいています。神を神として正しく知ることができない、だから神を賛美することができなくなっているのです。

 

イエスを通して  ・私たちもまた、神を正しく知ることができなくなっていました。自分勝手な神をつくり上げ、自分がほめられること、認められること、評価されることを一番に求めていました。神がほめたたえられることなど求めていませんでした。私たちは神のひとり子イエスを通してでなければ神を正しく知ることができませんでした。私のためにイエスは十字架に架かってくださいました。イエスの十字架によって、神を正しく知る道、そして自分自身を知る道が開かれました。今日も私たちは、天の父に目を上げて祈ります。イエスを通して神は私たちの父です。そして主の祈りは私たちの祈り、教会の祈りです。私たちに必要なことは、ともにイエスを通してただ神だけを礼拝することです。私たちが心も身体もともにただ父と子と聖霊の神だけを礼拝するとき神の御名は聖なるものとされるのです。

 

聖霊の助けによって けれども、日曜日に神を礼拝して主の祈りを祈ればそれで終わりではありません。明日からの日々の生活の中で私たちに必要なことはみことばに聞き従うことです(ヨハネ15:7-8)。私たち神の民がみことばに聞き従うとき、神の御名はほめたたえられ、神のすばらしさがこの世界で光り輝きます。私たちとこの世界が造られたことも、イエスがこの地上に来られ、私たちが罪と死から救われたのも、御名が聖なるものとされるためです。この祈りが完全に実現するのは終わりの日、イエスがもう一度この地上に来てくださるときです。その日まで私たちはこの祈りを祈り続けます。私たちは聖霊の助けによってただ神だけを礼拝します。聖霊の助けによって神のことばに聞き従います。そして世界中の人々がただ主だけを礼拝し、神のことばに聞き従うようになりますように。そのことを通して神が神として賛美されますようにイエスを通して、聖霊の助けによって、天の父に祈りながら歩んでいくのです。