2021年7月4日礼拝
私たちのために戦われる主 ヨシュア記10章31~43節
約束の地が語るのは ヨシュア記10章で語られるのはカナンの地の南部をイスラエルの民がどのように勝ち取ったかです。「ヨシュアは、全イスラエルとともにリブナからラキシュに進み、これに向かって陣を敷き、ラキシュと戦った。」(31)これは領土を広げるための争いである以前に、カナンの地の偶像礼拝や不道徳との戦いでした。カナンの地は私たちが生きる世界そのものです。私たちは神が造られたよい世界の中で生かされています。同時に、この世界は人間の罪ゆえに、神抜きの価値観、不道徳、さまざまな悪の影響を受けています。ですから私たちがクリスチャンとして生きる人生にも戦いがあるのです。外側には神から引き離そうとする悪魔との戦い、内側には古い罪の性質との戦いがあります。ですから、私たちにとってカナンの地は私たちが神とともに生きていく人生そのもの、この世界そのものです。たしかにヨシュア記で語られているのは、3000年以上昔の、遠く離れた中東パレスチナの出来事です。けれども、神の民を導いておられるのは私たち教会とひとりひとりを今も導いておられる同じ主です。ここに私たちが生きる人生の真実、私たちが生きる世界が描かれているのです。
聖絶が語るのは 「ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。」(40)イスラエルの民はいくつもの町との戦いに勝利しました。「聖絶」とはすべてを滅ぼし尽くして主へのささげものとするということです。神が愛であるなら、なぜ神はこのようなことをイスラエルの民にお命じになるのでしょうか。聖絶はあくまで、カナンの地でのイスラエルの戦いにおいて、一時的に主が採られた方法でした。イスラエルの民がカナンの地にはびこる偶像礼拝と不道徳に染まってしまわないためです。ですから、旧約聖書は今の私たちに武力戦争を命じているのではありません。主は罪を憎み、不道徳と偶像礼拝に怒りを燃やされる方です。聖絶を通して主が私たちに語られるのは主のきよさです。
私たちに必要なきよさ 3000年前も今も、神の民に求められるのはきよさです。それは私たちをがんじがらめにするためではありません。それほどまでに神にとって私たちひとりひとりは高価で尊い存在だからです。イスラエルの民がそうであったように、私たちも、自分自身の罪の力、悪魔の力と、自分の力では戦えません。だからイエス・キリストが遣わされたのです。神のひとり子がこの地上に送られ、罪のない生涯を全うされ、きよくない私たちの身代わりに十字架で死なれ、死からよみがえられました。私たちに必要なのはキリストのきよさです。「これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。」(42)イスラエルの民のために戦われた主は、今どこで戦っておられるのでしょうか。<神などいない>と思わせる力がますます強く働いているように思えるこの世界の中で、主は私たちのために今も戦っておられます。主は今生きておられます。私たちは主が今生きておられることを証しする生き方へと遣わされていくのです。