2022年1月30日礼拝

神の契約の民  ヨシュア記24章25~28節

・まもなく世を去ろうとしているヨシュアはイスラエルの民に選択を迫ります。ヨシュアが去った後、主に仕える道を選ぶのか、そうではない道を選ぶのかという選択です。イスラエルの民は<わたしたちも主に仕えます>と答えました。ここで神との契約が結ばれます。ヨシュアとイスラエルの民はシェケムという場所で主との契約を結びます。

 

・契約の言葉が書き記され、契約の証拠として大きな石が立てられました。場所はシェケムの「主の聖所にある樫の木の下」(26)です(126354参照)。主がアブラハムに現れてくださった場所、そしてヤコブが外国の神々を埋めたのと同じ場所で、ヨシュアとイスラエルの民は、私たちは主に仕えますと誓ったのです。主に仕えることは偶像の神々との関わりを断つことです。ヨシュアはこの場所に大きな石をたてました。もちろん、この石は拝むためのものではありません。この場所で主と契約を結んだことの証しです。この石をみるたびに、彼らはこの場所で神の民としての契約を思い起こすのです。旧約の時代には、神の契約の民は、基本的にはイスラエルの民に限られていました。けれども、神のご契約は世界の民が神の民となることです。この神のご契約は、イエス・キリストによって実現しました。私たちと神との間には、私たちと神の民の間には大きな隔ての壁がありました。けれども、イエス・キリストが十字架の上でいのちをささげてくださったことによって、隔ての壁は取り払われました。イスラエルの民ではない私たちにも、神の子ども、神の民として生きる道が開かれたのです。それはイエス・キリストを神である救い主と信じて生きる道です。クリスチャンになるとは、イエス・キリストを通して神と契約を結ぶことです。主の民として、主に仕えて生きていくこと。私たちは信仰を告白し、契約のしるしとして洗礼を受けます。そしてともに囲む聖餐の食卓にによって、神の契約の民とされていることを味わうことができます。今朝も私たちは神の契約の民としてここに集められています。神の契約のたみは主の呼びかけに対して、主にのみ仕えることで答えるのです。

 

・とうとう旅立ちの時がきました。イスラエルの民はヨシュアのもとから遣わされて、それぞれが受け継ぐ土地に旅立っていきました。彼らはそれぞれの場所で主に仕える生き方を始めます。主が約束してくださったすばらしい場所で、祝福を味わうことになるでしょう。同時に、豊かな地には誘惑もあります。その地の神々に心奪われる誘惑です。主にのみ仕えることは戦いです。私たちもこの世界から選び出され、罪と死に支配された生き方から救い出されて

 

神の契約の民とされました。それはもう一度この世界に遣わされていくためです。私たちもまた主によってそれぞれの場所に遣わされていきます。私たちが遣わされていく場所は神抜きの価値観で動いている世界です。寂しさや心細さ、飢え渇きを感じることが多いものです。主にのみ仕えることをやめさせようとする力が働いているからです。けれども、私たちは神から離れて遣わされるのではない。どこにいても主がともにおられる場所に遣わされていくのです。