2022年5月8日礼拝

再出発       エズラ記 3章1~6節

本来いるべき場所に戻る イスラエルの民にとって、バビロン捕囚からの解放は、神の民としての再出発の時でした。主はイスラエルの民をあわれみ、ペルシアの王キュロスを用いてバビロンから解放してくださいました。「イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来た。」(1)バビロン捕囚はイスラエルの民が罪によって神から離れてしまったことの結果です。私たちもまた神を神と認めず、自分が神になろうとする罪の中にいたからです。イスラエルの民がバビロンに支配されていたように、私たちも罪の支配の中にいたのです。神はイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちを罪と死の力から解放してくださいました。イスラエルの民が自分たちの町、本来の場所に戻ることができたように、私たちも本来いるべき場所、神のもとに戻ることができたのです。神は今日も私たちを礼拝に招いてくださいました。本来の場所、神の場所に戻ることが出来るように私たちを招いてくださいました。だからここから再出発できるのです。

 

救いを喜ぶ 彼らがエルサレムに集まってまずしたことは、神の祭壇を築くことでした。「そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるため、イスラエルの神の祭壇を築いた。」(2)神殿の中心は祭壇です。祭壇はイスラエルの民が主にささげものをささげるための場所です。祭壇は神が人と出会ってくださる場所です(出エジプト294244)神はきよい方です。きよい神が、罪ある人間に出会ってくださる。これはありえないことです。だから祭壇の上で罪ある人間の身代わりに、家畜のいのちがささげられました。バビロンによって壊された神殿の所定の場所に人々は祭壇を築きました。彼らが祝った「仮庵の祭り」(4)は秋の収穫祭であるとともに、出エジプトと荒野の旅の守りという神の救いを喜ぶ祭でした(申命記161315)。祭りは喜びの時です。エルサレムに帰った民は主の救いを喜ぶことから再出発しました。礼拝は主を喜ぶ時です。神は私たちを救ってくださった。神が私たちに出会ってくださる。私たちは神のものとされた。私たちも救いを喜ぶことから再出発しましょう。

 

 

ささげる イスラエルの民が祭壇でささげたのは「全焼のささげもの」(2456)です。これはすべてを焼き尽くすささげものであり。完全な献身をあらわします。イスラエルの民が完全に神のものとされたから。全焼のささげものによって、自分たちを神のものとしてささげる姿勢を示したのです。旧約の礼拝の中心は祭壇のささげものでした。一方で、新約の礼拝の中心はイエス・キリストです。私たちの罪の身代わりに十字架の上でご自身のいのちを完全にささげてくださったからです。私たちはイエス・キリストという完全なささげものによって神のもとに戻ることができました。本来の場所に帰ることができました。だから主の前で喜びと感謝をささげるのです。日曜日の礼拝から日々の生活へ。本来の場所から、主の救いを喜ぶ歩みへ、ささげる歩みへ、ここからもう一度出て行きましょう。