2021年3月28日礼拝

神の子の証し  ヨハネの福音書19章38~42節

私たちの身代わりの十字架 「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。」38当時のローマ帝国では、死刑となった者の体は墓に葬られません。見せしめのためです。なぜ神の子である方がこんなみじめな死を味わわなければならないのか。イエスの十字架は罪人である私たち人間の身代わりの死です。イエスを憎むユダヤ人指導者たちは、自分たちは正しいと思っていました。だからイエスが神の子であることを受け入れることができません。私たちの中にも彼らと同じ罪があります。自分は正しいと思い、自分が神のようになろうとする罪です(出エジプト20:3)。十字架につくべきなのは私たちでした。イエスが十字架に架かられたのは、私たちの罪の身代わりとなって、ご自身のいのちと引き換えに、私たちを神抜きのむなしい生き方から解放するためでした。

 

私たちを変える十字架 「そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。」38ヨセフは以前はユダヤ人たちを恐れる隠れた弟子でした。もし弟子であることが知られれば地位も名誉も働きも失うことになります。けれどもイエスの十字架以降、彼の中で何かが変わりました。ヨセフはイエスの体を引き受け丁重に墓に葬りました。人の目を恐れて生きるのではなく、堂々とイエスの弟子として生きていく決意の現れです。イエスの十字架は私たちを変えるための十字架です。私たちは今まで自分が正しいと思い、人からの栄誉を求める生き方をしてきました。けれどもそれは本来の生き方ではありません。イエスは地上の栄誉を求めず、十字架の死にまで従われ、天の父から与えられた救い主としての使命を全うされました。イエスの愛は私たちを造り変える愛です。イエスの十字架において示された神の愛によって、私たちは新しく造り変えられ、変えられ続けていくことができるのです。

 

王としての勝利 「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」39イエスの体を亜麻で包んで葬る際、ニコデモが香料に混ぜた「没薬」は東方の博士たちが幼子イエスにささげた、王に対する贈り物です。ニコデモは30リットルもの没薬と沈香をささげました。イエスの王としての葬りにふさわしいささげものでした。「イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。」41-42園の近くにあった「新しい墓」もまた、主イエスの王としての葬りにふさわしく備えられた墓でした。イエスは王です。地上の王ではなく、すべてのものの王である救い主です。力や能力によってではなく、十字架に架かられることによって、主イエスは救い主としての使命を全うされました。十字架こそがイエスが神の子キリストであることの証しです。私たちは問われています。自分を正しいとし自分を神として生きるのか、王であるキリストを信じ従って生きるのか。まことのいのちの道は王であるキリストを信じ従うところにあります。